【280】夜の客
廊下の足音は、扉の前で長く止まっていた。しばらくして、板が二度だけ鳴った。
夜の十時。研究所の火は落とし、薬缶だけがまだ温い。こんな時刻に来る顔なら、たいてい音で分かる。カイゼルなら扉を叩かない。人を立てる。ソフィアさまは紙で済ませるし、グスタフなら礼儀より先に用件が飛んでくる。今の音は、そのどれでもなかった。急かさない。けれど帰る気もない。
扉を開けると、知らない老人が立っていた。白髪に長い外套。杖の先に、外の湿った土が点々とついている。背は高い。歳の分だけ肩は落ちているのに、目だけが痩せていない。灯りを受けた縁が、冷えた刃みたいに細かった。
「リーゼ・ヴァイスフェルト殿ですかな」
「はい。どちら様ですか」
「ルートヴィヒ・フォン・アルトシュタットです。お時間をいただけますか」
名が耳に入った瞬間、扉を持つ指に力が入った。議会で学院に反対した人物。旧魔術院の元院長。ソフィアさまが警戒していた相手だ。追い返すのは簡単だった。廊下には護衛もいない。けれど、杖をついて、夜に、本人が来ている。板一枚越しで終わらせる話ではない。
「……どうぞ。椅子だけですが」
研究所は薬草と出汁、煤、乾いた粉の匂いが混ざっていた。今日の試作の鍋を洗いきれず、流しには布巾が一枚残っている。ルートヴィヒを席へ通し、茶器を出した。客だから、というより、手を止めると余計なことを言いそうだった。
火から外した薬缶の底が、卓でちり、と鳴る。湯気が指先を刺した。いつもなら落ち着く茶葉の青さまで、今夜はやけに苦い。
湯を注ぐ間、ルートヴィヒは棚、乾燥中の根、解体しかけの器具、床の木箱まで見た。値踏みではない。どこから火が出て、どこを塞げば止まるかを読まれている気がした。嫌な目だ。
「いい茶葉ですな」
一口でそれか。褒め言葉なのに、試験官が答案の余白をなぞる声だった。こちらの反応まで拾っている。
「南部産です。高いので、客用です」
「高いだけではこう出ない。火を入れすぎていない。香りが死んでいない」
そこを見るのか。わたしは自分の杯には手をつけず、向かいへ座った。
「本題に入りましょう。学院ですね」
「ええ」
「わたくしは反対しました。ご存じでしょうな」
「議会の記録は読みました」
「理由は」
「安全保障。そう書いてありました」
ルートヴィヒは杖を膝の前で揃えた。指先は細い。老いても震えはない。
「その通りです。エッセンスは危険です。匙一杯で鍋の味を変える。量を誤れば、人の感覚まで壊す。暴走した力は、鍋肌で止まらない」
知っている。第三層で味わった圧力を、骨が覚えている。あれを知らないとは言えない。
「わたくしは六十年、エッセンスの管理に携わってきました。事故の記録だけで箱が二つある。錯乱した研究者、味覚を戻せなくなった使用人、力に酔って家を潰した嫡男。名前を伏せても、数は消えません。知識のない者に刃を渡して、それを慈悲と呼べる時ばかりではない」
「だから、鍵を内側から掛けたままにするんですか」
「独占、という言い方は感情的です」
穏やかな声だった。怒らない。眉一つ動かさない。その落ち着きが、かえって温度を奪う。
「管理です。軍が武器庫を開放しないのと同じ理屈だと考えてください」
「包丁は棚に隠しません。持ち方から教えます」
「包丁とエッセンスを同列に置くのは危うい」
「同じじゃありません。けれど、知らない刃ほど手を切ります」
「その怪我で済めば、ですが」
ルートヴィヒはわたしの言葉を途中で切らない。こちらが言い切ったあと、わずかに頷くだけ。その頷きが一番面倒だった。粗い反論なら鍋ごと返せるのに、これは底へ沈む。
「あなたは大賢者だ」
「その名前で呼ばれると、まだ胃が重いんですけど」
「あなたが管理するなら、今は安全でしょう。では、あなたの後は?」
湯気が薄くなる。茶が冷めていく。
「一期生は三十人でしたか。二年で倍にする話も出ている。講師を育て、地方に分け、貴族家が真似る。あなたは全部の鍋を覗けますか。死んだ後まで」
わたしは杯を持ち上げた。口をつける前から渋い匂いが立つ。置きすぎた茶は正直だ。
「中止しろ、と言いに来たわけではありません」
「なら、何を削れと」
「速度です。扉を開く幅を半分にする。講師を誰が名乗れるか、教材をどこまで配るか、食材と量の線引きも曖昧なままでは困る。事故が起きた時、誰が鍋の前に残るのかまで、先に紙へ書かせる」
「学院を学院でなくする提案ですね」
「損を小さくする提案です。あなたの理想が潰れる時、巻き添えを減らすための」
否定しない。実に誠実で、実に厄介だ。
ルートヴィヒは杖を手に取った。椅子の脚が床を擦る音まで整っている。
「これは脅しではありません。忠告です。無謀に進めれば、止める者が出る。わたくしだけではない。金を止め、場所を貸さず、講師候補を一人ずつ引き抜く。包丁を抜かなくても学校は潰せる」
扉の前で一度だけ振り返る。
「茶は見事でした。高い葉を無駄にしない方だ」
それを置き土産にして去っていく。廊下の足音が遠ざかり、消えた後も、室内の空気は冷えたままだった。
わたしは自分の杯を飲み干した。冷めきって、渋い。底の茶葉が唇に張りつく。舌で剥がしてから、流しに置いた帳面を開いた。余白へ「監督機構」と書いて、筆を置けなかった。横に、茶の染みが落ちた。




