【279】消えた食材
扉の向こうにあるはずの匂いが、抜けていた。
朝、貯蔵庫の錠を外した時、手の中の鍵だけがやけに重かった。棚が空だった。小麦粉の乾いた粉気、塩袋の白さ、干し肉の燻香、根菜の土臭さ。二週間分が抜けると、空気まで薄い。
わたしは一歩中へ入り、棚板を指でなぞった。爪の先に粉筋ひとつつかない。昨夜のうちに、丁寧に持ち出している。
昨日の夕方、在庫はアリアと確かめた。帳面にも印をつけた。鍵も閉めた。袋の山の位置まで覚えている。なのに今は何もない。
膝をついて床を見た。靴跡はない。袋を引きずった麻屑もない。敷居の隅の埃だけが、妙にならされている。台車を使い、掃いて消したか。あるいは最初から、ここを知る人間が音も立てずに運んだか。
棚板の高さを見れば、持ち出した側が量を把握していたのも分かる。適当に盗ったのではない。授業が止まるぎりぎりを知っている手つきだ。
「アリア」
呼ぶ声が、自分で思ったより低かった。
「はいっ、先生――」
足音が駆けてきて、貯蔵庫の前で止まる。アリアは中を見たまま、口を開けた。声が出ない。
「……え。これ、どうして」
「昨夜、誰か残ってましたか」
「いません。最後に出たのはわたしです。戸締まりも、窓も、裏口も。見ました。見た、はずです」
「責めてません。鍵です」
窓枠を見る。割れはない。鍵穴も無傷。こじ開けた形跡がないなら、開けたのは鍵を持つ人間だ。旧兵舎の管理は元々軍。合鍵の所在を洗えば候補は出る。
そこまで考えて、ルートヴィヒの顔が浮かんだ。証拠がない名前は、まだ口にしない。口にしないが、嫌な臭いは消えない。
生徒たちが登校してきた。いつものように前掛けを結び、実技をする顔で台所へ入ってくる。その前に食材がない。空の棚を見るたび、誰かの腹が小さく鳴った。袋の擦れる音も、芋を転がす音もない。静けさだけがやけに場所を取る。
「先生、今日の荷は?」
トーマスが棚を見て眉を寄せた。軍にいた人間は空の貯蔵庫に敏感だ。
「盗まれました」
ざわつきが走った。前掛けの紐を結びかけた手が止まる。
「今は怖がっている時間が惜しいです。買いに行きます。午前は座学」
「全部ですか」
「買える分だけ。マティアスさん」
教室の扉にいたマティアスが眼鏡を押し上げる。事情を一瞥で飲み込み、うなり声も上げずに紙束を抱えた。
「無茶を言いますね。テーマは?」
「保存食。乾物、塩蔵、燻製。棚が空だと覚えが早いと思います」
「最悪の教材ですね」
「忘れにくい教材です」
市場まで走った。朝露の残る石畳で足を取られ、裾が泥を吸う。財布の口金を開けた時点で、二週間分の穴は埋まらないと分かった。
塩は削れない。保存の授業も昼の汁も止まる。小麦粉は半袋、豆は抱えられるだけ。根菜は割れ物と小さいものを混ぜてもらう。肉はやめた。干し肉一束で、粉と豆がまとめて消える。香辛料の瓶は棚へ戻した。売り手の顔を見て、値切れる店だけ回る。鍋一つ守るにも、台所は計算だ。
戻った時には、喉が焼けて、荷車の取っ手で掌が赤くなっていた。上に載っているのは三日分、伸ばして四日分。見た目で分かるほど足りない。
教室の前を通ると、マティアスの声が聞こえた。
「――塩の足りない塩蔵は腐敗を待つだけです。煙材をけちった燻製も同じ。保存は節約ではなく、失敗を先払いする技術です」
いつもより語気が立っている。生徒たちは静かだった。空の貯蔵庫を見た後だからか、腹を鳴らした生徒まで板書を写している。嫌な形だが、今日は誰も聞き流せない。
「午後の実技、どうします?」
アリアが袋を受け取って、軽さに顔を曇らせた。
「やります」
「これで?」
「これだから、やります」
昼過ぎ、三十人の前に並べたのは、しおれかけた葉物、蕪の端切れ、半端な芋、買ってきた小麦粉の残り、塩。貴族の生徒が一瞬だけ表情を曇らせた。分かりやすい。
「欲しい食材が、全部そろっている台所ばかりじゃありません」
「残り物で客に出すんですか」
「残り物と言われない皿にします」
生徒たちは渋い顔で動き始めた。包丁の音がばらつく。鍋を焦がす班があり、塩を怖がりすぎて味が寝る班もある。芋の皮を剥くか剥かないかで小声の喧嘩まで起きた。
足りないと、手は逆に迷う暇を失った。エルマは葉と根を分け、火入れを変えた。トーマスは芋の皮を剥かずに焼き、粉で薄い生地を伸ばして腹に溜まる一皿へまとめた。焦げた鍋も出たが、昨日までより鍋の前で黙る顔が増えた。文句の声より、包丁の音が勝ち始める。
片付けの湯がまだ熱いうちに、カイゼルへ報告した。受話器越しの声は短い。
「食材を抜かれました」
「抜かれた?」
「二週間分。合鍵の可能性が高いです。旧兵舎の管理経路を洗ってください。鍵の貸し出し、返却記録、修理名目の出入りも」
「調べる。鍵は全部替えろ。今日中だ。費用は宮殿で持つ」
「それと、次が食材だけとは限りません」
一拍置いて、空気が変わった。
「護衛をつける」
「生徒に気づかれない形でお願いします。怖がらせると、授業が止まります」
「分かった」
受話器を置くと、掌に受話器の金気が残った。帳場へ戻り、今日使った粉の量、塩の減り、残った豆の袋、新しい鍵の見積欄を書き出す。三日。無理をして四日。肉なし。昼の汁は薄めない。
棚の空いた段に、新しい塩袋を一つ置いた。口を二重に結び、鍵束をエプロンの内側へ押し込む。
廊下で誰かが足音を止めた。
わたしも、手を止めた。




