【278】グスタフの来訪
門板が低く二度鳴った。
返事をする前から、肩の大きさまで思い浮かぶ。
扉を押すと、グスタフがいた。厚い外套の肩に灰、靴底に乾いた泥。腕を組んだまま、兵舎のひび割れた壁と軒を眺めている。曇り空の下で、そこだけ薪をくべすぎた竈みたいに圧があった。
「ここか」
「ここです」
「ボロいな」
「雨は、まだ漏ってません。厨房は広いです」
「まだ、か」
鼻で笑って、返事を待たずに中へ入る。歩幅が大きいせいで、石床の音が余計に響いた。
厨房に入った途端、目つきが変わる。
壁でも天井でもなく、竈の口、灰受け、流しの縁、調理台の高さ。換気口を見上げて、指先で煤をこすり、指腹の黒さを見た。流しには勝手に桶の水を半分流す。水が排水口の手前でよどんだところで眉が動いた。
「――悪くない」
「それ、褒めてます?」
「壊れてはいない」
ほとんど大絶賛だ。
口には出さなかった。言えば引っ込められる。
「何しに来たんですか」
「見に来た」
「見るだけ?」
「見るだけだ」
「宮殿からの派遣状は」
「ない」
「ないのに来たんですか」
「紙が来る頃には、鍋が割れる」
「工具箱、見てますけど」
「……目に入った」
三歩もしないうちに、グスタフは竈の一つへ膝をついた。外套の裾が灰を拾う。火口へ指を突っ込み、角をなぞって、爪に詰まった煤を振り落とした。
「ここ、燃えが鈍る。二度、いや一度半でいい。石を噛ませろ」
「直してくれるんですか」
「工具は」
「裏です。釘は古いのしか」
「曲がってなけりゃ使える。五本。太いの」
頼む前から、もう仕事の声になっている。
裏から工具箱を持って戻ると、グスタフは袖を肘までまくっていた。前腕に古い火傷の跡が何本も走っている。金槌を取る手に迷いがなく、石の粉がぱらぱら落ちた。釘の頭を二度叩いて、三度目で沈める。乾いた音が、空の鍋まで震わせた。
わたしは割れた煉瓦を押さえた。熱は入っていないのに、灰と獣脂の匂いが指につく。
半分ほど締め直した頃、入口が詰まった。
午後の実技の生徒たちが、三十人まとめて固まっている。先頭の子の籠から玉ねぎが一つ落ち、ころりと転がって、誰も拾わない。
「先生……あの方は」
「グスタフ・ヴォルフ。宮殿の厨房長」
名を知っている者の喉が鳴った。知らない者も、隣の顔色で背筋を伸ばす。エルマは前掛けの端を握りしめ、トーマスは顎を引いたまま、目だけで出口の距離を測っていた。逃げる気なら遅い。
グスタフは立ち上がり、手の煤を布で拭った。袖口から炭と獣脂、奥に香辛料の湿った匂い。宮殿の宴席ではなく、仕込み場の匂いだ。
「全員、包丁」
「……今からですか?」
「今、持っていない奴は飯を作れんのか」
誰も笑わない。
わたしが自分の包丁を取ると、ようやく鞘の擦れる音が続いた。三十本ぶん、遅れて鳴る。
「構えろ」
厨房が一段狭くなった。
グスタフは列の前を歩く。肩を押す、肘を指で下げる、柄を握る手を一瞬だけほどかせる。名前は聞かない。癖だけ見る。
「深い。刃が遅れる」
「肘。肉を切る前に台を削るぞ」
「指を寝かせるな。落としてから泣くな」
直された生徒は息を止める。触れられた場所だけ、急に自分の体ではなくなるらしい。
十五人目あたりで、グスタフがトーマスの前に止まった。
「軍上がりか」
「……分かりますか」
「包丁を短剣みたいに持つな。刺す料理は今日はない」
「癖で」
「癖で指を持っていかれる。治せ」
トーマスの口元が歪んだ。何か言いかけて、飲み込む。飲み込めただけ、偉い。
エルマの前では、グスタフは包丁より靴を見た。
「踏めてない。足を開け」
「は、はい」
「返事で肩を上げるな」
「はいっ」
「上がってる」
エルマの耳まで赤くなる。けれど腰を落とすと、刃先の揺れが少し減った。本人も気づいたのか、目だけ丸くする。
列の半ばを過ぎたところで、グスタフは何人かを見もせず通り過ぎた。
アリアが小さく手を上げる。
「……あの、通り過ぎた人は」
「今直すと怪我する。重さが入っていない」
「重さ、ですか」
「朝から木片でも刻め。三日。刃を怖がる手は、言葉じゃ治らん」
きつい。けれど変に慰められるより、台所では安い。怪我をすれば血で野菜を捨てるし、治るまで手も減る。三十人のうち五人欠けるだけで、昼の粥が薄くなる。
予定していた煮込みは取りやめになった。
籠の玉ねぎ、芋、人参を台に広げる。皮の土が爪に入る。玉ねぎの匂いで、端の子が涙をぬぐった。グスタフは壁際に立ち、腕を組んだまま動かない。焦げかけた芋も、厚すぎる人参も助けない。失敗分の皿が減ることを、全員の目に置いたままにする。
刃先が白い指へ滑った瞬間だけ、声が飛んだ。
「引け」
包丁が皮膚の手前で止まる。
止めた子の膝が抜け、調理台に額をぶつけかけた。隣が慌てて支える。床に落ちた人参を、別の子が踏んで潰した。
「捨てろ。それはもう土と靴の味だ」
「は、はい!」
一つ分の損。
グスタフはそれも数えている顔をしていた。
火が落ちる頃、生徒たちの前掛けは汗と玉ねぎの汁で湿っていた。竈の修理跡をグスタフが最後に拳で叩く。今度は鈍い音が返った。
「来週も来る」
「――はい」
「週に一度。午後だけだ。それ以上は無理だ。宮殿を空にできん」
「助かります」
「礼はいらん。あの包丁を放っておく方が高くつく」
門へ向かいかけて、足を止める。
「釘、今度まともなのを買え。細いのは曲がる」
「予算に入れます」
「十本で足りると思うな」
それだけ言って出ていった。
門の外で靴音が消えても、厨房の誰もすぐには動かなかった。やがて一人、また一人と、自分の包丁を握り直す。鞘に戻す者はいない。
トーマスが柄を持ち替え、舌打ちを堪えた顔で手首を返した。
「……短剣じゃない、か」
エルマは隣で、足を開きすぎて鍋台に膝をぶつけている。
痛そうな音がした。
それでも刃先は、さっきより少しまっすぐ落ちた。




