【277】聞こえない
机の上へ、林檎を三十個転がした。
本当は十五個でよかった。半分に切ると面が乾くし、持っていない子だけ顔を固くする。財布に痛いので、あとで全部使う。布を敷いたのに、ごろごろと板が鳴った。赤黒く熟れたもの、尻が黄色いもの、軸の周りだけざらつくもの。窓の光を受けても、つやは均一じゃない。ひとつ拾うと指の腹が冷えた。市場の籠から来た朝の冷たさが、まだ芯に残っている。
「今日はエッセンスの感知訓練をします」
三十人の目が、包丁を置いた時より早くこちらへ来た。入学願書にまでは書かなくても、みんな腹の底でそれを期待している。食材の声を聞くこと。見えないものを、鍋に入る前に拾うこと。
「一人一個。触って、目を閉じて。……耳じゃなくて、手で聞いてください」
「何を、ですか」
「林檎の声」
椅子が一つ軋んだ。笑う寸前で飲み込んだ顔もある。冗談かどうか、わたしの口元を見ている。冗談で林檎を三十個も出さない。傷んだら蜜煮に回すが、それでも砂糖代はかかる。
「音じゃないかもしれません。硬さや甘さ、日の当たった側のぬるさ、皮の乾き――そういう返事が、言葉になる前に手へ当たります。探して」
三十個の林檎が掌に収まる。目蓋が落ちる。厨房から、いつもの音が戻ってきた。竈の火。廊下の靴音。外の荷車の鉄輪。誰かが唾を飲み、誰かの爪が皮を掻きそうになって止まる。
砂時計の砂が底まで落ちても、誰も動かない。もう一度ひっくり返そうとして、手についた林檎の水気で硝子を滑らせた。危ない。わたしは袖で拭いてから、列の間を歩いた。
力みは肩より先に喉へ出る。息を止めている者は、林檎まで固く握る。眉間に皺を寄せる者。親指で軸の穴を押してしまう者。両手で包み込みすぎて、温めてしまっている者。食材は捕物じゃないのに。
机の端で、こつ、と音がした。林檎を叩いたのだ。別の生徒は耳に当てている。反対側で「甘い気がします」と声が上がった。早い。早すぎる。わたしは「あとで切ります」とだけ返した。止めかけて、やめた。外した手つきのほうが、言葉より残る。先に「違う」を置くと、生徒は正解の形だけ撫でるようになる。
「――聞こえません」
エルマだった。目を閉じたまま、口だけが悔しそうに曲がっている。言えないまま固まるよりはいい。声に出せば、握りしめていた手がほどける。
「聞こえないのが普通です」
「先生は、最初から……できたんじゃないんですか」
「できませんでした。林檎を持って、石みたいな顔をしていたと思います」
何人かがこちらを見た。前半は本当。後半は半分くらい、本当だ。ネルがいて、エルヴィンの記録があって、わたしは近道に近いものを踏ませてもらった。それでも指先は他人の記録で育たない。毎日、触るしかなかった。
「どうやって聞こえるように」
「同じ食材を、嫌になるまで扱うことです。洗った水の濁り、切った時の匂い、火を入れた後の崩れ方。一晩置いて、しなび方も捨てる前に見る。手に失敗を残す」
「近道は」
「ないです」
小さなため息が落ちた。包丁を一晩で覚える薬がないのと同じだ。あれば宮廷厨房が買い占めているし、たぶん高すぎて学院には回ってこない。
トーマスが片眉を上げた。林檎は膝の上で、かなり温まっている。
「聞こえないまま終わる人もいますか」
「います」
返事のあとで、空気が詰まった。林檎を持ち直す者がいる。目を伏せる者もいる。期待を折られた音は、鍋の底を擦った時に似ていた。
でも、ここで甘い嘘を混ぜると、あとで腐る。腐った慰めは、怪我より始末が悪い。
「聞こえなくても料理人にはなれます。グスタフは聞こえません。それでも帝国一です」
「じゃあ、何のために」
「聞こえる人が出た時、厨房で使える形に落とすためです。『何か感じました』だけでは皿になりません。砂糖を半匙減らすのか、焼く時間を延ばすのか、肉の脂に当てるのか。そこまで手が動いて、やっと厨房の言葉です。聞こえない人も、その癖はつきます」
わたしは自分の林檎を掌で転がした。陽を浴びた側だけ、わずかにぬるい。皮の張りは強いが、芯の近くに青さが残っている。これを「声」と呼ぶのは、たぶん便利だからだ。本当はもっと、舌と指と鼻がごちゃごちゃに働く。
「今日は、聞こえなくていいです。聞こえない、と分かるところまでで充分。無理に作った返事は、料理を間違えます」
そこで手を叩くと、生徒たちは林檎を抱えたまま動かなかった。持って帰っていい、と言ってようやく椅子が鳴る。寮で触るのだろう。枕元に置いて、朝には温くなっただけの林檎を見て、がっかりするかもしれない。そこからでいい。
残った林檎を箱へ戻す。汗ばんだ掌の熱。乾いた指の粉っぽさ。押しつけすぎた場所の鈍いへこみ。エルマのだけ、指の跡が浅かった。怖がっている。けれど逃げてはいない。
蓋を閉める前に、それを一つ取り出した。刃を入れると、しゃく、と硬い音がした。種のそばに青い渋み。
砂糖で丸めるより、肉の皿だ。明日の賄いで、誰かに分からせる。




