【276】開校
祝辞用の紙は、油染みのついた棚の上に置いたままにした。
「エッセンス学院、始めます。――手を洗ってください」
旧兵舎の厨房には、朝の冷気がまだ腰の高さに残っていた。石床が靴底越しに熱を持っていく。竈に火を入れると、薪が爆ぜ、鉄鍋の腹がかんと鳴り、湿った壁から去年の煤の匂いが戻ってきた。
三十人の生徒が、新しい前掛けを胸に結んで横一列に並ぶ。白布は同じでも、折り目を親の顔より大事にする者、結び目が脇へ逃げる者、緊張で紐を結び直すたび短くしていく者がいる。
前掛けに名前は入れなかった。貴族も平民も、家名が布に刺さった瞬間、目線がそこへ寄る。ここで見るのは手。爪の際と、傷と、熱いものを持つ時の逃げ方だ。
祝辞を待っていた顔が、何人か置いていかれた。それでも全員、流しへ向かう。水音が重なり、石鹸の泡をこする音がざりざりと増えた。狭い流しに肘がぶつかる。譲ったつもりの一歩で、別の桶がつかえる。三つしかない設備を三十人で回す。皿洗い係がいない厨房では、そこから仕事が始まる。
「先生、流しが詰まります。順番を――」
アリアが書き板を抱えたまま囁く。
「決めません。詰まったら、詰まった場所を自分で見てもらいます」
洗い終わった手は、見れば分かる。爪の間が白く残った手。手首で終わった手。濡れた指を服の脇で拭きかけ、わたしと目が合って止まる手。衛生は地味だが、味に出る。そこを軽く見る料理人は、鍋底の焦げにも言い訳をつける。
わたしは竈の前に立ち、麻袋の口をほどいた。南方から入れた米だ。帝都ではまだ珍しいし、安くもない。袋が開いた途端、乾いた穀粒の匂いが立つ。小麦より軽く、豆より静かで、指を入れると砂よりも素直に逃げた。
「今日は、米を炊きます」
列がざわりと波打った。貴族の子弟には食卓の飾りより遠い穀物だし、農村出身でも口にしたことのない者がいる。だから都合がいい。侯爵家の少年も、牛飼いの娘も、同じ顔で麻袋を見ていた。
「一人一合。三十人で三升。こぼした分は戻りません。袋は高いです。洗いすぎれば割れる、水に浸さなければ芯が残る。火にかけてから怖くなって蓋を開けると、その分だけ味で返ってきます。水をどこまで入れるか、いつ蓋に触るか、自分で決めてください。わたしは止めません」
エルマが遠慮がちに手を上げた。
「先生、炊いたことがない人は……」
「ここでは、それが普通です」
「失敗しても?」
「残さず食べるところまでが授業です」
肩を落として息を吐いた者がいた。逆に、匙の柄を握り直す者もいる。失敗していい、と聞くと怖くなる顔だ。正解が紙に書いていない鍋は、育ちも癖もそのまま出る。
三十人が動いた。米を洗う音だけで厨房が別の生き物になる。力任せに粒をこすって濁りを泥みたいにする者。指の腹で、逃げる粒を追う者。水を替える回数で固まり、桶の前に立ち尽くす者。濡れた米が床に二筋散ったので、拾わせて洗い直させた。捨てない。南方米は、床に落ちても金だ。
その間に流しが本当に詰まった。白い濁り水が石床へ溢れ、貴族の少年が一歩下がったので、桶を持たせた。
トーマスは無駄のない動きで鍋を選び、計量を目だけで済ませた。エルマは米に触れる時間が長い。手のひらの中で、粒の硬さを確かめている。
わたしは三十の鍋の間を歩いた。火が強すぎる鍋からは早くも湯気が荒い。蓋の縁で泡がぶつぶつ鳴っている。別の鍋は火が弱く、水面が眠ったままだ。焦げる匂い。生煮えの匂い。米の甘い匂い。誰かが蓋をずらし、跳ねた湯で隣の袖が濡れた。
「蓋を開けたい顔をしている人」
半分近くがこちらを見た。見ていないふりをした者も、指が蓋のつまみに寄っている。
「我慢してください。蒸気は逃がすと戻りません」
「でも、見えないと不安です」
「音と匂いで見ます。泡の音、さっきより細いでしょう」
何人かが鍋へ耳を寄せた。近すぎて、わたしに襟を引かれる。
「顔を蒸さない。火傷は授業料に入りません」
開けたい。触りたい。確かめたい。その気持ちは分かる。けれど鍋の中には、勝手に変わる時間がある。手を出しすぎると、米はすぐ拗ねる。わたしも何度もやった。
薪が半分ほど灰になり、髪の内側まで湯気の匂いがしみたころ、三十の鍋から三十の匂いが上がった。
「蓋を開けてください」
白い湯気が一斉に立つ。焦げた鍋。水気の残った鍋。芯の立った鍋。誰が見ても飯と言える鍋は三つ。米の袋だけ見れば赤字だが、初日なら上等だ。
「自分の鍋から食べて。隣の成功をつままない」
匙が動く。眉が寄る。口の中で噛む回数が増える。顔は正直だ。
「不味い人」
二十七人の手が上がった。上げ遅れた一人は、周りを見てから観念したように手を挙げる。匙の先に焦げ粒をつけたまま、耳まで赤い。鍋底を覗きたいのを我慢して、視線だけが泳いでいた。
「なぜ不味いか、分かりますか」
沈黙。喉を鳴らす音。どこかで鍋肌がちり、と冷めた。
「分からなくていいです。明日も炊きます。明後日も。その次も。自分の米が食べられる味になるまで続けます。焦がした人は薪の組み方を変える。水っぽい人は蓋を開けた回数を数える。芯が残った人は、浸す時間を隣と比べなさい」
「理論は教えないんですか」
マティアスの方を見ながら、貴族の少年が尋ねた。あの人を理論の化身だと思っているらしい。
「教えます。でも先に、口と腹に覚えさせた方が早い」
授業の終わり、生徒たちが鍋を洗う音が厨房に満ちた。焦げを削る金属音、すすぎの水音、誰かのため息。わたしは最初に焦がした鍋を持ち上げ、底を見せた。
「これ、誰の」
奥でエルマが、視線を逃がしてから小さく手を上げた。
「……わたしです」
「いい焦げです。明日は米じゃなくて、薪を減らしましょう」
エルマが泣きそうな顔で布を差し出す。わたしは鍋を流しへ戻した。
「熱いうちに水、入れないで。鍋が割れます」
その一言で、三人が桶を持ったまま固まった。




