【275】三十人
塔が傾いた。
募集を出して十日。研究所の机に封書が積もり、端の束からずれていく。紙と封蝋、雨を吸った麻袋の匂い。アリアが抱えてきた分を上に置いた途端、下の束が滑った。
「わ、待っ……!」
わたしは肘で押さえた。封蝋が袖にこすれて、赤い粉がつく。
「多すぎます」
「見れば分かります。机も今、分かった顔をしています」
「冗談を言っている場合では」
「言わないと、これを全部、人間の人生だと思ってしまうので」
アリアの口が閉じた。山は黙っている。黙っているくせに重い。
「初年度は三十人が限界です。竈は十二。教官は、臨時を混ぜても四人。刃物を持たせるなら、一人の目が届く数を超えられません」
「はい」
「食材費も。練習用の粉と豆だけで、ひと月に銀貨……」
「言わなくていいです。胃が痛い」
「選ばないといけません」
分かっている。三十人を入れれば、残りは扉の外だ。胃の奥が冷えたが、椅子に座っていても紙は減らない。封書を一枚抜く。推薦状、家名、成績、志望理由。どれも整っている。整いすぎて、鍋に入れる場所がない。
「どう選びます?」
「実技で」
「面接は」
「鍋を振らない口なら、宮廷にいくらでもいます。一品作ってもらう。得意なものを。持参できる材料で」
「味だけですか」
「味も。けれど、皿より先に手を見ます。食材を見る目も」
旧兵舎の中庭に仮設竈を十二基並べると、石畳のひびから前の雨がまだ匂った。薪は三束ずつ、炭は予備を一箱。水桶は井戸から二十往復。マティアスが帳面に「人員、燃料、騒音」と書いて眉を寄せていた。
「採点者として、わたしは情緒に乏しいですよ」
「情緒で落とされた方が困ります」
「それはそうです」
応募者は八十七人。番号札は七十一で一度足りなくなり、アリアが裏に炭で書き足した。家令を連れた若い貴族、腕まくりの商家の娘、鍬だこが残る少年、膝を引きずる元兵士、背中の曲がった老婦人。香水、土、古い油、馬小屋の匂いまで混じる。火が入ると、身分より先に汗が出た。
持参した食材で一品。制限時間は一刻。手伝いは禁止。従者が布巾を差し出そうとして、アリアに追い返される。火吹き竹を吹きすぎた少年の鍋には灰が入り、誰かが落とした玉ねぎをわたしが踏んだ。三番竈は煙を逆に吐き、マティアスが咳をしながら窓を押し開ける。番号札の紐が切れて、一人の名を二度呼びかけた。靴底から甘い匂いがする。嫌になるほど現場だった。
若い貴族はフィレ肉を持ち込んだ。刃はよく研がれ、香草も高い。焼き目は美しい。だが肉を返すたび、視線がこちらへ飛ぶ。鉄鍋の音が変わった時も、眉一つ動かない。皿は整っていた。中の汁は逃げて、縁に薄く広がっていた。
わたしは名簿の端に短い線を引いた。丸ではない。
飴細工の皿を出した娘は、指先まできれいだった。砂糖の鳥は見事で、羽の一枚まで透けている。けれど鍋肌の蜜が焦げ始めても、倒れかけた飾りの角度を直している。
「焦げています」
「あ、でも、これが今……」
「焦げています」
娘はようやく鍋を見た。遅い。
白髪の老婦人は固い豆を持ってきた。味は薄い。塩も足りない。けれど蓋を斜めに置く角度がよかった。豆の皮が破れる寸前で火を弱める。水が減る音を聞いている。耳が鍋に向いていた。
膝を引きずる大男は、元兵士だと言った。名前はトーマス。干し肉と黒パン、玉ねぎだけで濃い煮込みを作る。包丁は荒い。まな板の上に玉ねぎの端が残る。だが火力の見切りは正確で、黒パンを崩して落とすタイミングが腹立たしいほどいい。
「審査員向けではありません」
皿を置いた声は平坦だった。
「軍では何人分を?」
「鍋が空になるまでです」
「人数を聞いています」
「三十。悪い日は五十。肉は足りません」
匙を入れると、玉ねぎが干し肉の塩気を抱えていた。飾り気はない。だが腹を空かせた人間を黙らせる味だ。アリアが「塩、強くありませんか」と小声で言ったので、わたしは首を振った。汗をかいた午後なら、これでちょうどいい。
そのあと、蕪と塩だけを抱えた娘が竈の前に立った。爪の間に土が残っている。袖口は擦り切れて、手首が赤い。
「それだけですか」
「はい」
細い声だ。
「油は」
「買えませんでした」
「なら、それで」
娘はうなずき、蕪を洗った。水桶の縁で泥を落としすぎない。葉の根元を指でなぞり、灰に埋め、火の縁を手の甲で測る。熱くて一度引っ込めた。けれど目は離さない。焦げる前に位置を変え、皮が張る音で向きを変える。
焼き上がった蕪を割ると、白い湯気が上がった。噛むと歯の裏に水分が当たる。砂糖ではない。土と寒さで溜めた甘さだ。塩をひとつまみ落とすだけで、味が前に出た。
「名前は?」
「エルマです。南部の、クラインフェルト村から」
「畑は」
「借り畑です。これは、昨日の明け方に抜きました」
名簿に丸をつける。アリアが隣で身を乗り出したが、説明は後回しにした。
日が傾く前に終わるはずだった。終わらない。薪の束が一度足りなくなり、マティアスが兵舎の古材を崩す許可を取りに走った。水桶の取っ手で掌に筋ができる。中庭には失敗作も成功作も混ざった匂いが残った。焦げた油、煮えた豆、焼いた蕪、肉汁、ハーブ、濡れた灰。
「三十人。……いったん、ここで切ります」
わたしが名簿を渡すと、アリアが目を走らせた。
「基準、やっぱり分かりません……」
「わたしも全部は言葉にできません」
「困ります」
「困ってください。紙だけで選ぶ方がもっと困る」
「ですが、あの貴族の方は成績が首席です」
「鍋を見ていませんでした」
「飴細工の方は、見た目は」
「焦げを止めなかった」
「トーマスさんは荒いです」
「荒い。けれど五十人の胃袋を計算していました」
「エルマは蕪だけです」
「蕪を殺さなかった」
アリアは黙った。帳面を抱え直す指に、煤がついている。
「包丁は教えます。衛生も叩き込みます。礼儀は……必要なら、厨房の外で練習させます」
「中では?」
「鍋が沸いたら、鍋を見る」
名簿の採用欄には三十の丸。不採用の束は、数えるまでもなく厚い。あとでアリアが五十七と書き込んだ。通知を書く紙を取りに立つと、椅子の下から蕪の皮が出てきた。灰まみれで、端だけ白い。
拾って屑籠に入れる。指についた灰が、採用者の名の上に落ちた。
「不採用通知から書きます」
アリアが一瞬だけ目を伏せて、封筒の束を寄せた。机はまた傾いた。




