【274】ルートヴィヒの影
「学院設立の予算案、反対は二十三票でした」
ソフィアさまは厨房の入口で、濡れた手袋を片手にそう言った。淡い青のドレスの裾には雨粒ひとつついていない。外は細い雨で、荷運びの小僧の靴だけが泥だらけだったのに、濡れているのは手袋の指先と、抱えた報告書の角だけだ。
わたしは竈の前で鍋をかき混ぜていた。炒めた玉ねぎの甘い匂いに、黒胡椒の辛さが刺さる。木匙を回す手を止めると、底の豆がすぐ重く沈んだ。
「通ったんですね」
「通りました。賛成は百七十二票。数字だけ見れば圧勝です」
数字だけ、という言い方で、あまり圧勝ではないのだと分かった。
「面倒な人がいたんですか」
「ルートヴィヒ・フォン・アルトシュタット。旧魔術院の元院長です」
聞き覚えのない名だった。わたしは火を絞り、木匙を鍋縁に預ける。しずくが鍋肌に落ちて、じゅ、と短く鳴った。ソフィアさまは椅子に腰を下ろし、濡れた手袋を片方ずつ外した。布の上に置かれた手袋から、薄い水の輪が広がる。
「七十二歳。引退はしていますが、旧体制では重鎮でした。エッセンスの知識は、資格と家柄のある者が管理するべきだと」
「家柄も入るんですか」
「本人はそこを強く言いません。『訓練を受けた管理者』と言います」
「ああ。綺麗な皿に盛り直すんですね」
ソフィアさまの睫毛が下がった。茶器にはまだ手を伸ばさない。
「理屈だけなら筋は通っています。知識の浅い者が事故を起こした記録はあります。第三層に関わる案件まで持ち出されました」
胸の奥が、嫌な重さを思い出した。骨の内側を押されるような、あの圧力。あれを知らない人に「危なくありません」とは言えない。言えば、こちらの舌が安っぽくなる。
「でも、独占の言い訳にもなる」
「なります」
雨音が、会話の隙間に入り込んだ。鍋の表面では豆が崩れはじめ、肉の脂が薄い膜になっている。火を強めれば焦げる。弱すぎると、味がぼやける。ルートヴィヒという人は、焦げた匂いを指さして火そのものを取り上げるのだろう。しかも、その指は清潔で、爪の間に泥もない。
「怒鳴る人ではないんですね」
「ええ。声を荒らげず、相手を侮辱せず、安全保障の話だけを積み上げました。議場では、それが一番刺さります」
「刺さったんですか」
「反対二十三票。可決後に発言を求めた者が六名。迷って棄権した者もいます」
ソフィアさまは、そこで茶を一口飲んだ。唇の端に水滴も茶渋も残さない。整っているのに、目の下だけは薄く疲れていた。議場で、何度も同じ穴を埋めてきた顔だ。
「旧魔術院の卒業生は軍にも行政にもいます。表立って学院を潰すより、許可印を遅らせる、講師の名簿に傷をつける、食材や薪の搬入を乱す。その方が安く済みます」
「安くて効く嫌がらせ、嫌ですね」
「ええ。三日遅れるだけで、開校準備は詰まります。机は届かない。宿舎の竈は試せない。厨房の失敗は、生徒の不安に直結します」
ちょうど裏口で木箱が一つ倒れた。アリアが短く叱る声がして、蓋のずれた粉袋が戻される。会議場の話をしているのに、返事はいつも厨房に落ちてくる。
わたしは棚の方を見た。豆は二樽。麦粉は袋で数えると心細い。干し肉は足せるが、塩の替えが遠い。薪問屋が首を振れば、朝の粥は薄くなる。薄くなった粥を食べる子どもは、政治の名前なんて知らない。ただ、ここは腹が満たない場所だと覚える。
「台所を狙われたら、早めに教えてください。帳簿の数字が変な時も」
「リーゼさんなら気づくと思っていました」
「気づきたいですけど、全部は無理です。荷札をすり替えられたら、匂いで分かるものと分からないものがあります」
「人をつけます」
「料理を知ってる人を。偉い人じゃなくて、樽を持ったことがある人でお願いします」
ソフィアさまの口元が、わずかに動いた。笑った、というほどではない。けれどそのくらいでよかった。今ここで綺麗に笑われたら、こちらも綺麗な返事をしなければならない気がしたから。
「分かりました。荷の重さで嘘を見抜ける者を回します」
「助かります」
鍋から泡が持ち上がった。慌てて蓋をずらすと、煮汁が縁を伝って竈に落ちる。焦げた豆の匂いが混じった。わたしは舌打ちしかけて飲み込み、布巾で鍋縁を拭く。指先に熱が走った。
「大丈夫ですか」
「平気です。こういうのは、隠す方が後で痛いので」
言ってから、半拍、間が落ちた。
危ないから教えない。危ないから近づけない。その言葉で守れるものは確かにある。包丁を子どもの手から遠ざける日もあるし、火の前に立たせない日もある。
でも、ずっと鍵をかけた台所では、誰も握り方を覚えない。腹も満たせない。
ソフィアさまは椅子を引いた。脚が床を擦る音が、雨よりはっきり聞こえる。
「不審な動きがあれば知らせます。学院は通りました。通した以上、開けます」
「はい。焦がさないようにします」
「焦げたら?」
「削って、食べられるところを残します。鍋ごと捨てるのは、最後でいいです」
今度は、ソフィアさまが短く息を漏らした。笑いまではいかない。ただ、肩の力が落ちた。
扉が閉まる前に、裏口からまた「荷札が濡れました」と声がした。わたしは返事をして、火床に薪を一本押し込み、帳簿を引き寄せた。余白に、炭、塩、荷馬車、替えの問屋、荷札を油紙に、と書く。字は曲がった。指先がまだ熱い。
鍋の豆は、端の方だけ少し潰れすぎている。塩を足す手前で止めて、一粒つぶして舌に乗せた。焦げは、削ればまだ間に合う。




