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【273】教えるということ

 マティアスが机いっぱいに紙を広げた。罫線の上に細い字が詰まり、端には付箋、別紙、注釈、参考文献。重ねた紙の角がわたしの袖に当たる。インクの匂いまで堅い。


 料理の話をするはずなのに、卓の上だけ学会の控え室みたいになっていた。茶は冷め、表面に薄い膜が張っている。


「カリキュラム案です。四年制。入学直後に基礎理論、慣れた頃に体系化されたエッセンス解析、上級で選択科目、仕上げに研究論文。必要単位は――」


「待ってください」


 ペン先が止まる。


「四年は長いです」


「学問とはそういうものです」


「食材はそう待ってくれません。料理は、紙の上だけの学問じゃないです」


 言った途端、マティアスの眉が上がった。薄い唇がぴしりと真っ直ぐになる。机の端の紅茶には、さっきから手もつけていない。


「エッセンス学は立派な学問です。体系があり、理論があり、再現性も」


「否定してません。でも、わたしは教科書で鍋を振れるようになったわけじゃないです。竈の前で、熱くて、煙くて、何度も失敗して覚えました」


「あなたは特殊です。例外を基準に制度を組むと、後で悲鳴を上げます」


「例外でも入口は同じです。包丁を握る。刃が怖いと知る。塩を入れすぎる。鍋底を焦がす。そこからです」


 マティアスは腕を組み、紙の山へ視線を落とした。右端の付箋が一枚、指で押されてくしゃりと曲がる。一週間かけて練った案なのだろう。悪いとは思う。けれど、このまま通すと学院は小さな魔術院になる。卒業生は論文を読めても、昼の仕込みに間に合わない。


「では、どう教えるんですか」


「玉ねぎ一個でもいいです。切らせる。厚さがそろわない、涙が出る、手が臭くなる。そこで説明します。なぜ切り方で舌触りが変わるのか、どうして水を沸かすだけで鍋の中身が変わるのか。食べた直後なら、頭より先に舌が覚えます」


「いきなり実技ですか」


「いきなりです」


「危険では」


「危ないです。血も出ます。だから教師が横に立つ。最初は包丁を全員に渡さない。十人に三本、予備は五本。研ぎ代も火傷の薬も要ります。薪と水を無駄にすれば、食費が削れます」


「教育論としては荒っぽい」


「台所ですから」


 マティアスは鼻で笑った。笑った、に分類していいか迷うくらいの息だったが、機嫌が底まで落ちていない証拠ではある。彼は一枚抜き取り、裏返した。白紙の面にペンが走る。さらさら、さらさら。付箋を二枚はがし、一枚は捨て、一枚は余白に貼り直した。


「……入ってすぐは実技主体。理論は工程に挿入。衛生、刃物、火力、水分量。水分量は削れませんね」


「削ると焦げます」


「その先は」


「舌と手を鍛えます。エッセンスの感知もそこから。高い食材ばかり使うと学院が潰れるので、古い豆と新しい豆、冬越しの根菜と朝掘りの根菜、その差を拾わせます」


「……財布に優しい教育ですね」


「財布が死んだら鍋も死にます」


「外へ出す時期は」


「手が勝手に鍋へ伸びるようになってからです。保存法、塩の値段、井戸水の癖、乾いた風で粉がどうなるか。土地ごとの台所を知らないと、王宮と大商家に吸われる料理人しか育ちません」


「旅費が高い」


「高いです。だから全員を同時には出しません。近場から回して、戻った学生に報告させる。報告だけだと足りない分は、干物でも漬物でも持ち帰らせます」


「卒業前は論文ではなく?」


「皿が先です。自分の料理を一皿にまとめる。論文は、なぜそうしたかを後で書けばいいです」


「不特定多数に披露しないのですか」


「客を百人と書いた瞬間、皿がぼやけます。病み上がりの人、忙しい兵士、泣き止まない子ども。相手が見えない皿は、綺麗でも冷めます」


 マティアスがペン先を止めた。眼鏡を押し上げ、こちらを見る。


「妙に具体的ですね」


「台所のことですから」


「なるほど。あなたは鍋の配置から制度を考える」


「そっちは論文の脚注から鍋を考えてますけど」


「脚注は鍋より裏切りません」


「湿気たら滲みますよ」


 今度は本当に嫌そうな顔をされた。


 窓の外で荷馬車が石畳を鳴らした。二人とも黙って、机の上の紙だけが増えていく。わたしは冷えた茶を脇へ押しやり、水差しを寄せた。喉の奥にインクの匂いが残っている気がした。


 マティアスは書き終えた紙をこちらへ向けた。さっきまで学会の議題みたいだったものが、どうにか学校の骨になっている。実技と理論を差し込む場所、足りない道具、削ると危ない費用。余白には「包帯」と小さく足されていた。学者は腹が立つくらい仕事が速い。


「――これでどうですか」


「いいです。かなり」


「かなり、ですか。満点を避ける言い方ですね」


「満点をつけると気を抜きそうなので」


「わたしは学生ではありません」


「でも、教える人ですよね」


 マティアスの手が止まった。ペン先のインクが、点になって紙に滲む。


「……わたしが?」


「理論の授業をお願いします。わたしは料理しか教えられません」


「料理しか、でこの学院を作るつもりなのですか」


「作ります」


「無茶ですね」


「よく言われます」


 彼は椅子の背にもたれ、指先でペンを回した。断る人なら、ここで肩書きと予定を並べる。マティアスは紙の角を揃え始めた。整えて、順番を作って、引き受ける時の手だ。


「講義室には黒板が必要です。チョークは安物だと粉が飛びます。喉を潰したら講義になりません」


「やってくれるんですね」


「食事の出る職場なら考えます」


「賄い付きです。味見も仕事です」


「なら検討の余地があります」


 検討、と言いながら、彼は次の紙に講義一覧を書き始めた。端に小さく「昼食」と足して、そこだけ線がやけに濃かった。


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