【272】旧兵舎
枯れ茎が石壁を擦る。しゃっ、しゃっ。風がやむと、中庭の隅に乾いた音だけが残った。
兵舎は帝都の東端にあった。石造りの二階建て。崩れた屋根の隙間から、薄い灰色の光が落ちている。窓枠は湿気で歪み、中庭の雑草は膝まで伸びていた。歩くと種が裾に刺さる。
「――ここ、ですか」
「十年前に閉じた。兵の組み替えで余った」
カイゼルが先を歩く。皇帝が空き兵舎の案内役をしている時点でかなり変だが、本人は気にしない。護衛のフィンだけが落ち着かず、靴底で小石を噛むたび肩を揺らした。
扉は一度押しただけでは動かない。肩を入れると、蝶番が耳障りな声を上げて開いた。古い木と石埃の匂いが、顔にまとわりつく。鼻の奥がつんとした。天井は高い。壁は厚い。こういう建物は熱を抱え込む。夏は涼しいし、冬は火さえ回れば粘る。料理場に向いた骨格だ。
厨房で、足が止まった。
広い。五百人分の設計は伊達じゃない。竈は横一列に八台、火口は大きく、煙道も太い。水場は三か所。調理台は両腕を広げても端に届かない。錆と煤でひどい顔をしているが、構造は崩れていなかった。放っておかれた鍋底みたいに見えて、芯はまだ死んでいない。
吊り棚には鍋を下げていた金具が残り、壁際には柄の欠けた木匙が転がっていた。拾うと、先端は焦げ、手元だけ滑らかだった。十年前の兵士か炊事係か、誰かが毎日握っていた形だ。図面には出ない。使われた台所には、手の跡が残る。そういう場所は、火を入れた時の立ち上がりも早い。
「ここ、本当に全部使っていいんですか」
「空いている。使え」
返事は半分だけして、竈へ寄った。火口の高さを確かめ、鉄板を指で弾く。こつ、と鈍い音。端の二つは口が歪んでいる。真ん中寄りの一台は煙が抜けそうだ。奥は灰受けが詰まり、腕を突っ込むと湿った煤が手の甲まで絡みついた。フィンが顔をしかめる。服の汚れか、皇帝の前で地べたに這う女か、どちらが嫌なのかは知らない。
「リーゼ殿、それは、後で職人を――」
「職人に渡す前に見ます」
鉄板の厚みは揃っている。これなら煮込みも焼き物もいける。大鍋をかけても歪まない。軍用設備は雑に見えて、火に関しては案外誠実だ。兵士の飯を焦がしたら、軍議の前に暴れるからだろう。そこだけは政治より分かりやすい。
「二階は使えますか」
「寝床だった。詰めれば百。教室にするなら、床板を見ろ」
階段を上がると、踏み板の埃が靴先から白く跳ねた。二階はだだっ広い。南向きの窓が並び、曇り空でも字は読めそうだった。机を置けば教室になる。壁際には棚を組める。床に残った寝台の傷まで、こちらを急かす線に見えた。
窓を開けると冷えた風が入った。下に井戸、雑草、車輪の外れた荷車。畝は東へ寄せたい。香草は井戸のそば、ただし洗い場で踏まれない幅を残す。壁際でも育つ葉物なら、土の悪さをごまかせるかもしれない。豆の支柱は、あの回廊から紐を取れる。
試しに声を出す。石壁に当たって、遅れて返った。……届く。窓際の列は午前の光で字が見やすいし、奥には標本棚も置ける。机を全部そろえる前に、調理台を一つ運び込めばいい。理論の途中で肉を切り、香草を潰し、失敗した匂いまで嗅がせられる。頭と手の距離は短い方がいい。
「畑もいけますね」
「好きにしろ」
好きにしろ、で予算と権限がこちらへ転がってくる。便利すぎて、一瞬手が止まった。けれど修繕費は食器棚から湧かない。わたしは階段を駆け下り、井戸へ向かった。滑車はきしんだが、水は上がる。桶の縁から覗く水面は濁っていた。指を浸す。冷たい。唇に乗せると、鉄臭さは薄い。飲み水にするには、まだ怖い。
「飲んだのか」
「舐めただけです」
「同じだ。毒見役を呼べ」
「毒見役は井戸を直してくれません。鉄臭いか腐っているか、それくらいは今見ます」
石縁には、桶を何度も置いた擦り跡が残っていた。指の腹でなぞると砂が噛む。ここも昔は忙しかったのだろう。台所は、人がいなくなっても使用頻度だけは隠せない。
カイゼルが何か言いたげに眉を寄せたが、止めなかった。止めても無駄だと知っている顔だ。わたしは兵舎の前に立ち、建物全体を見渡す。屋根を全部やれば金貨が十枚単位で消える。穴のある南側だけ先。窓枠は教室に使う部屋から。竈は五つ動けば今期は足りる。机は板を渡してしのげるが、鍋だけは買う。排水を後回しにしたら、夏に腐る。
やることは山ほどある。なのに腹が減った。いい台所を前にした時の、困った空腹だ。
「ここにします」
「早いな」
「厨房が死んでません。屋根より先に火が直せます」
「修繕費を出すのは俺だが」
「だから、使えるところから使います」
カイゼルは鼻で笑った。
「夕餉までに見積もりを持ってこい」
フィンが「今からですか」と声を裏返す。わたしは厨房に戻り、調理台の端を親指でこすった。黒い線が一本つく。煤だ。爪の中まで入る。落ちにくい。
灰受けを開ける道具、煙突職人、井戸の水質。紙に書く前から、見積もりは爪の間で黒かった。




