【271】学院構想
「お前の研究所、手狭だろう」
焼き魚の皮に箸を入れたところで、ぱり、と音がした。脂が皿へ滲む。炭の匂いと、焦げた味噌の甘さ。味噌汁の湯気が銀の燭台を曇らせる。
カイゼルは、骨を取る手だけは普段どおりだった。厄介な顔だ。決めた話を腹の底に置いたまま、飯を食べている。
「手狭、というか――溢れてます。アリアの机、廊下です。フィンが二回ぶつかって、三回目は皿を持ってたので本気で怒りました」
「知っている。報告は受けた」
「そこまで報告するんですか」
「廊下に火種を置くな、という話だ」
そこだった。わたしは焼き魚の身をほぐし、骨を皿の端へ寄せる。脂はまだ熱い。舌に乗せると崩れた。食事中に政治の匂いを入れない人なのに、今夜は最初から鍋の底が違う。
「前に言っていたな。教科書だけでは足りないと」
「はい。字を追えても、包丁の重さは紙から出てきません。読めない子は、もっと置いていかれます」
「教える場所を作れ」
箸先が魚の身を押し潰した。白い身が湯気を失って、皿に貼りつく。
「……学院、ですか」
「呼び名は任せる。お前がエッセンスを教える場所だ。土地と建物、初年度の銀は出す。人を集めろ」
「銀は、どこから」
「宮廷の予備費と、軍務庁の遊んでいる施設維持費を削る。寝かせておくより安い」
「安い、で済む額じゃありません」
「高い。だからお前に聞いている」
喉の奥に骨が刺さったような気がした。水で流す。刺さっていない。たぶん。
「誰でも入れる場所にしたいんですが」
「構わん」
「貴族も、平民も」
「要る」
「罪人上がりでも」
「審査しろ」
「そこは止めるんですね」
「止めていない。火と刃物と油を渡す。名前と手癖くらい見る」
「料理で更生する人もいますよ」
「する者もいる。最初の授業で隣の生徒を刺されては困る」
そこだけ妙に早かった。まともだ。わたしは小骨を舌先で探しながら、頭の中で台所の寸法を刻み始める。
竈は十もあれば、と考えかけて首の中で止めた。三十人を二人一組にすれば火口は足りない。けれど薪が跳ねる初心者の前で十五の火を立てたら、教師の寿命が縮む。交代でいい。流しは三つでは詰まる。水桶を廊下に置けば誰かが蹴る。砥石は床ではなく腰の高さ。干し肉は湿気る。卵は消える。包丁は同じ重さにしたいが、安い刃だと指まで持っていく。
「聞いているのか」
「聞いてます。包丁代で胃が痛くなってました」
「胃薬も予算に入れろ」
「そこまで甘やかすと、わたしが見積書を分厚くしますよ」
「厚くしろ。薄い見積りは後で高くつく」
この人は、演説をしない。銀貨の音がする話を、銀貨のまま卓に置く。飾った皿に盛らない。ありがたい。横から理念を振りかけられたら、味が分からなくなる。
教科書は役に立つ。でも、焦げた鍋を前に泣く子には、隣で手首を持ってやる方が早い。兵士は包丁を武器の握りで持つ。貴族の娘は袖を燃やす。市場の子は手が早くて、つまみ食いをごまかす。そういうところから始める場所なら、わたしは欲しい。
「場所の心当たりはあるか」
「ありません。台所が大きくて、床が洗えて、窓が開くところ。座学の部屋も要ります。畑は――小さくても。土に触らない料理人は、野菜を無駄にします」
「東区の旧兵舎が空いている。五百人分の厨房が残っている」
「五百人分?」
「煙突は傷んでいる。井戸は生きている。屋根は直す」
「直す、の内訳は」
「明細を見ろ」
「見せてください。今からでも」
「魚を食え。暗い厨房で怪我をしたら、学院どころではない」
返事を待つ間に、焼き魚の皮が冷えてしんなりした。気分を温めるより予定を固める。カイゼルらしいやり方だ。
「学院ができたら、反対も出ますよ」
「出る」
「貴族の料理人が怒ります。技術を安売りするなって」
「授業料は取る。払えない者には仕事で返させる」
「数字は」
「最初は三十までだ。寮に入れるのは、その三分の一くらいで考えろ。厨房実習は半分ずつ。増やすな」
「もう決めてるじゃないですか」
「増やしたら死ぬのはお前の足だ」
言い返そうとして、膝の古い痛みがじくりとした。腹が立つ。正しいので、よけいに。
「利益は?」
「宮廷厨房は慢性の人手不足だ。軍は粥を焦がす。救護所は病人に塩辛い汁を出す。そこへ人を回す。薬代と廃棄食材が減る。数字は財務官に出させる」
「財務官、泣きますよ」
「泣かせろ。泣くだけなら安い」
短い。決まる時は、煮え切らない豆より早い。カイゼルは魚の残りを食べ終え、水を飲んだ。銀杯を置く音が硬い。横顔には何も出ていない。出ていないから、本気なのだと分かる。
食器を下げようとして、立った膝がまた痛んだ。三十人分の腹、寮の寝具、薪、油、石鹸。皿を割る分まで入れたら、安くない。窓の外の灯りは数えない。数えたら負ける。
卓の端にあった紙片を引き寄せ、魚の脂がついた指を布で拭く。
竈は火口を絞って。流しは詰まる前提で。包丁は予備を含めて――
寮は、毛布からだ。




