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【270】前を向く

 教科書の第二部は、インクの匂いが乾ききる前に束になった。歴史編と銘打ってはいるが、エッセンスの起源に触れ、食の大賢者の名を戻し、帝国評議会が塗りつぶした線を、読んだ者が逃げられない位置へ引く仕事だった。真実だけを大声で置けば、刷る前に潰される。だから証拠の置き場を間違えない。


 研究所の窓辺へ目が行くのは、一日に二度ほどになった。戸を開けた時と、ランプを落とす前。挨拶の形だけ口が動く日もあるし、動かない日もある。空の窓台を確かめなくても、ネルがここで丸くなっていたことは薄まらない。


 オルガへ先に回した。返事は三日目の昼過ぎ、封蝋つきの紙で机に滑り込んだ。


「問題ありません。出版を認めます」


 一行。下にオルガの署名。余計な飾りがないぶん、紙が重かった。


 エルヴィンのレシピ集も、紙の束が本の厚みに近づいている。マティアスが擦れた本文を拾い、わたしが現代の食材で作る。一日三品が限界だ。煮込みの鍋を火にかけ、焼き菓子の砂糖を削り、保存食の塩を量る。病人の喉を通る汁物は、食事というより介抱なので別枠にした。百年前の料理は素朴で、しつこい。食べる人の歯、胃、熱、財布まで見ている。


 鍋底の厚みが一枚違うだけで、豆の皮は破れる。現代の塩は舌に立ちすぎ、砂糖は甘さが強い。書かれた匙のままでは嘘になる。火を弱め、塩を遅らせ、甘味を削る。その詰めをするたび、エルヴィンが残したものは理念ではなく、厨房で怒鳴られながら身につけた知恵だったのだと分かる。


 失敗も出る。昨日は豆に芯を残し、今朝は焼き菓子の底だけ焦がした。焦げた端を折って舌で確かめ、記録用紙に黒く書く。以前なら窓辺へ文句を言った。今は炭筆を握り直す。次の火加減を書いておかないと、同じ失敗で粉と卵をまた捨てることになる。


 火を入れて、昼の試作に押され、夕方の記録は紙の端へこぼれ、夜は教科書の校正に目をこする。忙しい。ありがたい、と言うには腹が立つ。手が止まると、膝が軽すぎる。だから先に鍋を火へかける。


 味見の途中で言いかけたことは、記録用紙へ落とす。塩は半刻遅らせる。出汁は骨を先に焼く。甘味は一割減、ただし子ども用は戻す。誰かに返すつもりで書くと、仕事は前へ進む。紙は返事をしないので、間違いも誤魔化せない。


 紙束に卵の染みをつけそうになったところで、ソフィアさまが筒入りの図面を抱えて入ってきた。足音より先に香の匂いがして、研究所の紙臭さと混ざる。


「リーゼさん。宮殿の分室、設計図が上がりましたわ。確認を。手、拭いてからで結構」


「はい。……粉がついていましたか」


「粉だけなら、まだ可愛いものです」


 慌てて布で指を拭き、机に図面を広げる。東翼の一角。書斎の隣に研究室、小さな台所は廊下へ背を向けない。食材庫は近い。窓の位置もいい。換気口の線は二本、匂いが奥へ籠もらない向きに切ってある。


「十分です。調理台も広い。粉袋を二つ置いて、まだ魚が捌けます」


「そこ、カイゼル陛下が口を出しましてね。『竈は一回り大きくしろ。大鍋が二つ並ばない』と」


「皇帝が竈に」


「設計士が半日黙りましたわ。国家機密の部屋でもないのに、図面を三回差し戻されたそうです」


 喉の奥で変な息が漏れた。カイゼルなら言う。言った上で、鍋の直径と薪の消費まで出す。


「笑ったわね」


 ソフィアさまが目を細める。


「はい」


「否定なさいませんのね」


「否定すると、もっと笑われます」


「久々に見ました」


「最近は、笑う前に火を弱めていたので」


「それもあなたらしいですけれど」


 図面の余白には、移転日程と備品の搬入予定、婚礼準備のメモまで詰め込まれていた。衣装合わせの時刻の横に、式次第の修正、招待客の差し替え。わたしの印がなくても紙は増える。増える紙のぶんだけ、人が動き、金が出ていく。


 研究所の棚を見回す。宮殿へ運ぶ鍋には荷札をつけた。置いていく本は紐で縛る。資料は二箱では足りず、三箱目に古い布を敷いた。ネル用の小皿は窓辺の棚に残す。指で縁をなぞって、そこには荷札を貼らなかった。


 移転後も研究所には通う。教科書の続きはここで刷り合わせるし、レシピ集の監修も火口の癖が分かるこの台所で詰める。宮殿の部屋は便利だ。近い。人も集めやすい。けれど、全部を移すと、宮殿の都合まで味に入る。


「式の料理は」


「作ります」


「招待客の数を忘れていません?」


「忘れていません。全皿は無理です。けれど、温前菜と祝菓子はわたしが仕込みます」


「やはり」


「他人に丸投げしたら、当日に厨房へ走ります」


 ソフィアさまは肩をすくめた。


「陛下にも同じことを言っておきます。厨房長の胃薬も手配して」


「それは多めに」


 ソフィアさまが図面を巻き直すあいだ、窓辺の鉢植えへ水をやる。猫草は青く伸びて、先だけが窓の光に透けていた。水差しを傾けると、土がぽつぽつ鳴る。食べる猫はいない。だからといって枯らす気もない。


 葉先から落ちた水が窓枠を濡らした。耳が動く気配を、一度だけ待ってしまう。来ない。濡れた跡を布で拭き、水差しを棚へ戻す。布の端に青い匂いが残った。


 明日の仕込み表を机に広げる。卵は籠の残りを全部、川魚は三尾、かぶ、人参、干し豆。移転前に片づける書類束は片腕で抱えるには多く、宮殿へ運ぶ鍋は大鍋だけでも腰にくる。婚礼用に試す焼き菓子の候補を書き足すと、余白がなくなった。足りなければ裏へ回す。


 炭筆で段取りを書き込み、確認の印も入れた。粉が親指につく。紙の端を揃えて重ね、重石代わりに塩壺を置いた。戸棚の鍵をかける前に、干し豆を水へ戻す欄へ丸をつけ足した。忘れたら、朝のわたしが怒る。


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