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【269】継承

 研究所の窓辺に、金色の毛がない。


 朝一番に湯を沸かす。塩壺へ指を伸ばす。そこで半拍、顔だけが窓へ上がる。以前ならネルが尾で窓枠を叩いていた。『濃い』『薄い』『魚はまだか』。返事の代わりに、猫草の鉢から湿った土の匂いがした。


 仕事は待たない。教科書は第五章の赤字を潰したそばから、次の紙束が肘にぶつかる。配給路の帳簿は銅貨三枚の差で止まり、アリアは訓練場で鍋の蓋までへこませた。


 覚醒後の力で検品は速くなった。籠に掌を当てると、柔らかくなった蕪、まだ持つ葉物、底で酸みを出しかけた魚が分かる。魚の声も、肉の疲労も拾える。便利すぎて、文句を言う先がないことのほうが目立つ。


 朝の点検で手は止まらない。止まらないぶん、口が余る。


「ネル、今日の味噌汁、濃い?」


 言ってしまって、匙を鍋に戻した。返事は湯気の音だけ。いつもの『知らん、自分で舌を使え』がない。塩が勝っていたので、水を椀半分足す。


 肩を揉みながら紙束を閉じたところで、扉に木箱の角が当たった。鈍い音。マティアスが箱を抱え直して入ってくる。眼鏡は曇り、袖には紙粉がついていた。


「エルヴィンの手記、翻訳が終わった。全七十二巻。索引つき。……腕が足りん」


「七十二」


 箱の中には分厚い冊子がきっちり詰まっていた。紙の匂い、古いインクの匂い、補修用の糊の匂い。蓋を開けただけで、百年前の作業机がこちらへ押し寄せるようだった。


「このうち半分は料理の記録だ。半分、と言っても三十六巻ある。残りは研究、配合、栽培、保存、食文化の観察。分類札が足りなくなった」


「レシピが三十六巻」


「食の大賢者だからな。こちらの腹も減る」


 わたしは最初の巻を開く。走り書きの癖は強いのに、材料と工程だけは驚くほど正確だった。温度、湿度、保存日数、代替食材。実務の塊だ。ネルが食べていた味の足跡が、ここに残っている。


 ページの端には油染みがあり、湯気で波打った跡もあった。研究室だけで書かれた本ではない。台所へ持ち込まれ、鍋の前で開かれ、濡れた指でめくられてきた記録だ。そういう本は信頼できる。


「出版します」


「教科書と並行でか。写本師はもう泣いているぞ」


「初版は百部。宮廷に置いて、料理人ギルドと薬師院にも回します。学院用は棚ごと確保します。足りないと言わせてから増刷です」


「紙代は」


「教科書の余り紙は使いません。配給路の利益から前借りします。帳簿は……銅貨三枚、あとで合わせます」


「名前は」


「エルヴィンの名義で。消された名前を、料理人として戻します」


 マティアスは反対せず、箱の縁を指で叩いた。三度、そこで止まって、また一度。計算が紙代の方へ転がった音だった。


「史料としても料理書としても値がつく。注釈は私がやる。索引の地獄を増やすなよ」


「増えます」


「知っていた」


 冊子の背を指で撫でる。紙の角は硬く、指に引っかかった。これを台所の手に戻す。継承、などと綺麗に言う前に、読める字にして、濡れても破れにくくして、棚へ置くところまでやらないといけない。


「それと、お願いがあります」


「まだあるのか」


「ネルの記録も残したいんです。エルヴィンの使い魔として百二十年生きて、次の大賢者を探して、わたしを叱り倒した猫のことを」


「付録に押し込むと埋もれるな」


 マティアスは箱から薄い冊子を抜き、空白の見返しを開いた。爪の先にインクが残っている。


「独立章にする。『エルヴィンの使い魔ネルについて』。証言はお前。事実関係はこちらで潰す」


「感情が混じります」


「混じる。だから日付と証言者をつける。消すな」


「猫の好物や口癖まで?」


「むしろそこを書け。王名と戦争は残る。皿の横で何を言ったかは、すぐなくなる」


 学者らしい返しだ。机の上で散らばっていた紙を、わたしは一枚だけ角に合わせた。


 机に新しい紙を置き、題を書く。筆先が紙に触れる手前で止まった。袖口に金色の毛が一本残っている気がして、見た。なかった。


「書けますか」


 マティアスが尋ねる。


「書きます。書かないと、残りません」


 息を吸うと、胸の奥がざらついた。最初の行に、ネル、と記す。


 二行目には、使い魔、と書きかけて止まる。あれは役目の名で、全部ではない。食い意地が張り、口が悪く、窓辺を占領し、甘い卵焼きを前にすると目だけ若返る猫だった。事実を書くなら、役目より先に皿のことかもしれない。


 毛並みを書く。老猫らしい細い背骨まで書いたところで、川魚の脂の匂いが割り込んだ。苦い内臓を好むこと、焦げ目のない卵焼きに厳しかったこと。言葉遣いは「わし」「じゃ」「のう」。書いた途端、紙の上の猫が偉そうになって、笑いそうになった。笑う前に、インクが滲んだ。


 配給係が戸を叩いた。


「北門から魚が五籠。氷が足りません。荷馬車が門で揉めてます」


 マティアスが、行け、という顔をする。


 わたしは紙の端に重石を置き、筆を硯に置いた。洗うのを忘れた。


「行ってきます。魚を腐らせたら、叱られますから」


 戸口で振り返ると、マティアスが黙って筆を洗っていた。水が黒く濁って、すぐ薄まった。


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