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【268】報告

「ネルがいなくなったと聞いた」


 皇帝の執務室は、前の部屋より一回り広い。壁際の棚が二列増え、窓の桟も高くなった。なのに息苦しさは前と変わらない。机の上には裁可待ちの紙束、封蝋の欠片、乾きかけたインク壺。カイゼルはその真ん中で、背だけは曲げずに座っていた。

 扉が閉まる。紙を捲る音と、暖房の炭がはぜる音。外に控えていた侍従の足音は、カイゼルが指を二本上げただけで遠ざかった。


「はい。三日前です」


「最後は」


「光になって消えました。苦痛は……たぶん、ありませんでした」


 カイゼルはすぐには返さない。手元のペンを置き、椅子の背へ体を預ける。赤い目がこちらを量った。見落としを許さない目だ。


「お前は」


「はい」


「大丈夫か」


 反射で口が動く。


「大丈夫です」


「嘘だな」


「嘘です」


 即答すると、カイゼルの眉がわずかに動いた。呆れたのか、納得したのか分からない。


「座れ」


 言われるまま椅子に座る。膝の上で指が泳いだ。いつもなら猫の重みがある場所だ。布だけが余っている。

 目を伏せる前に、机の向こうで椅子が鳴った。


 大きな手が頭に乗る。重い。けれど乱暴ではない。慰め慣れていない人間が、どこまで力を抜けばいいか迷った末の手だった。


「悲しいなら、そう言え。俺の前では隠すな」


 腹の奥に押し込んでいたものが、そこで崩れた。


「……悲しいです」


「分かった」


 手が離れる。カイゼルはそれ以上踏み込まない。机へ戻り、書類の山を肘で端へ押しやった。机の角が空く。顔を伏せろとは言わないまま。


 しばらく、ペン先が紙を滑る音だけが続いた。わたしは袖で目元を拭く。執務室の炭火は乾いた匂いがして、研究所の薪とは違う。


 水差しが机の端へ寄る。空のグラスの口が、ことりと鳴った。書類の半分がまた別の山になる。泣けとも言わない。泣くなとも言わない。


「陛下」


「ん」


「台所を、お借りしても」


「今か」


「今夜です。ここで。……作らないと、たぶん食べません」


 カイゼルは眉間に皺を寄せ、それだけで計算を済ませた顔をした。空いている竈、火の番に回す人間、余った魚をどう始末するか、護衛がどこに立てば邪魔にならないか。面倒は確実に増える。


「使え。俺も食う」


「ありがとうございます」


「ネルの好物は」


「川魚と、甘い卵焼きです」


「それを作れ」


「人間が食べるには、甘いです」


「俺が食う。残せば腐るだけだ」


 言い方が実務すぎて、喉が鳴った。笑い損ねた息が抜ける。


 最後の裁可書に印が押されると、カイゼルは侍従を呼ばずに立った。宮殿の台所は研究所のものよりずっと広い。竈は大人二人が並んで薪をくべられる大きさで、銅鍋は壁一面に吊られている。床には水が跳ね、香草と灰と獣脂の匂いが混じっていた。

 皇帝が入ってきたせいで、料理人が三人、塩壺や布巾を抱えたまま固まる。


「続けろ」


 カイゼルが顎で示すと、ようやく人が動いた。道が空く。わたしは焼き台の低いほうに立ち、袖を紐で括った。


「魚は二尾。卵は三つ……砂糖、これで足りますか」


「匙で」


「二杯。ネル用なら三杯」


「三杯使え」


「陛下の分も甘くなります」


「構わん」


 塩の皿を取ろうとして、指先が一度空を掻いた。場所が違う。料理長が差し出してくれた小皿は銀で、軽すぎるほど軽かった。


「足ります」


 カイゼルは柱の影に立った。手伝うとは言わない。出ていけとも言わない。台所へ書類を持ち込まないだけで、十分協力的だった。


 川魚を焼き網に置くと、皮がきゅっと縮み、脂が炭へ落ちて鳴った。焦げた匂いが鼻の奥に刺さる。卵を割る。殻がひとかけ入った。ネルなら鼻先を寄せて、『殻まで食わせる気か』とでも言うように尻尾をぱしりと振ったところだ。

 箸で殻を拾い、砂糖を入れる。混ぜすぎると固くなる。分かっているのに、箸が二度余計に回った。

 甘い匂いが立った瞬間、胸の奥がずきりと痛む。反射で三つ目の小皿を探してしまい、手が止まった。


 いない。そういうことだ。


「リーゼ」


「はい」


「火」


 卵の端が色づき始めていた。わたしは角鍋を火からずらし、巻き簾代わりの布で形を整える。熱が布を抜けて指先を噛んだ。


「……助かりました」


「集中しろ」


「はい」


 焼き上がった卵焼きを切り分け、皿へ移す。魚も皿へ上げ、塩を振った。二人分だけでいい。そう思ったのに、小皿が三枚、盆の上に並んでいる。料理人が気を利かせたのか、自分の手なのか分からない。

 一枚を戻しかけて、戻せなかった。空いた場所へ水椀を置く。


 食卓に着くと、カイゼルは塩焼きの骨をきれいに外して食べた。無駄口はない。卵焼きを一口入れ、眉を寄せる。


「甘い」


「猫仕様です」


「そうか」


 それだけ言って、次の一切れも食べる。わたしも箸を取った。甘い卵焼きは、舌に乗る前からきつい。飲み込むと喉の奥が狭くなる。

 向かいで、同じ甘さに眉を寄せている人がいる。だからもう一口だけ箸を伸ばせた。


「どうだ」


「……甘すぎます」


「知っている」


「まだ悲しいです」


「それも知っている」


「でも、一人で食べるよりは」


「なら、そっちを選べ。今夜だけでいい」


 カイゼルは骨だけになった魚を皿の端へ寄せ、湯を飲んだ。湯気で赤い目が曇り、すぐ戻る。

 台所に戻り、角鍋をもう一度火にかけた。卵は二つ残っている。砂糖は三杯、さっきと同じ。割った殻が指に刺さった。血は出ていない。混ぜながら、浮いた殻を箸の先で端へ寄せた。


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