【267】空の窓辺
かぶを置き、塩壺の蓋に指をかけたまま止まった。
包丁を握れば切れる。火をつければ煮える。そこまでは頭が知っているのに、肘から先が言うことを聞かない。塩の粒だけが、指の腹にざりっと残る。
目が窓へ逃げた。空だ。今朝、見送った。分かっている。布越しに残った軽さも、爪の音が途切れた瞬間も、手の中にある。それでも耳だけが、いつもの窓枠をとん、とん、と叩く音に勝手に備えている。
猫用の、縁の浅い小皿が一枚、布の上に出ていた。出した覚えがない。いや、たぶん出した。棚を開け、手が勝手に選んだのだ。戻そうとしても指先が曲がらず、皿は木目の上で白く浮いた。
昨夜までなら、ここでネルが鼻を寄せに来た。皿が空のうちから前脚をかける。早いと叱っても知らん顔で髭を動かす。今日は皿だけが軽い。持ち上げると陶器のふちが冷たく、薄い音が台所に当たった。
扉が叩かれた。小さく、間を置いて、ためらうようにもう一つ。
「リーゼさま」
アリアだった。わたしの顔を見た瞬間、聞きかけた言葉を飲んだらしい。書類の角が腕に食い込み、紙がかさりと鳴る。
「ネルが、行きました」
「……そう、ですか」
アリアは泣き崩れなかった。靴を脱ぎ、片方を倒したまま中へ入る。書類を机へ置く手つきが丁寧すぎて、胸の真ん中を押された。
「今日は休んでください」
「休むと、余計に考えます」
「……考えてください。手は、あとで動かせます」
言い返す前に息が漏れた。椅子へ沈む。膝の上が軽い。ありえないほど。そこに何も乗っていない事実が、冷えた石みたいに胃を押す。
アリアは前掛けを着け、竈の前に立った。紐が一度ほどける。結び直して、薪を三本組み、水を張った鍋を置く。包丁の音はわたしより遅い。かぶの断面は斜めぎみで、豆を洗う水は替えすぎだ。注意なら口の中にいくつも転がっている。出なかった。
それでも手順は外していない。出汁を先に取り、根菜は後から沈め、豆は指で潰して塩を見る。教えた通り、いや、自分の目でも確かめている。わたしの代わりに台所が動く。そのありがたさに助かって、同じだけ腹が立った。ネルが見たら、たぶん『しかめ面でも弟子は育つのう』と鼻を鳴らす。
包丁と薪の間が、やけに大きい。そこへ入るはずの、窓枠を叩くとん、とん、が来ない。
「味見、お願いします」
腹が空いた感覚がないまま、木の盆が来た。かぶと豆のスープ。刻んだ葉が湯気で湿り、青い匂いが立つ。横に小さな皿があった。アリアが置いたのだろう。白い皿を見て、匙を持つ指が滑った。
一口。出汁は荒い。塩はぎりぎりで、豆の皮が舌に残る。けれど温かい。飲み込める。胃が、仕事を思い出す。
「美味しい」
言ってから、匙が止まった。味が分かる。そこが苦しい。ネルに飲ませたかった、などと遅すぎる考えが浮き、沈まない。
「リーゼさま」
「大丈夫です。味は見られます」
「見なくていいです。今日くらい」
「だめです。あなたが作ったものです。返さないと、明日の鍋で迷います」
アリアは目元を赤くしたまま背筋を伸ばした。真面目が、こういう時にも逃げない。好きだと思う。悔しいほど。
「かぶ、中心がまだ固い。煮崩れを怖がったでしょう。豆は火を引くのが早いです。塩は……足さないで正解。香りはいい。わたしの真似だけではない、アリアの手の味になっています」
「……はい」
椀が空になってから、窓辺を拭いた。ネルの毛が数本、木枠の角に引っかかっている。金色で、長さはばらばらだ。一本は指に張りついた。集めて小瓶へ落とす。瓶の底で、かす、と音がした。
棚にはエルヴィンの手記が並んでいる。その隣へ小瓶を置いた。研究者の紙束と、百二十年生きた猫の毛。棚板がわずかに鳴る。そんな重さのはずはないのに。
研究所へ書類を返しに行くと、廊下の匂いがいつもより刺さった。薬品、湿った紙、石鹸、誰かが焦がした煮込み。猫の体温の匂いだけがない。鼻がそれを探して、焦げた煮込みを二度も拾った。
台所には戻れなかった。戻れないまま、汚れた布巾だけが桶の縁で冷えていくのも嫌だった。わたしは流しへ立ち、水を張り、布を絞る。使わなかった小皿を洗い、棚の一番端へ戻す。明日また出すかもしれない。それはたぶん止められない。それでも今日は戻す。
棚板を拭くと、木の節に短い金毛が一本残っていた。取ろうとして、爪の先で押し潰しそうになる。息を止め、指を離す。一本だけ残したまま、布巾を洗い直した。




