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【266】夜明け前

 椅子から立てないまま、壁時計の針だけが一晩進んだ。


 膝の上のネルを両腕で受け、背中を木枠に押しつけたまま朝を待った。台所からは洗い上げた鍋の金気、書斎からは紙と埃の匂い。研究所は息を潜めていて、時計の針だけが律儀に鳴る。ネルの呼吸は浅い。けれど、ある。腹が上下するたび、前掛け越しに熱が押してきた。


 机の端の茶は冷えきり、表面に薄い膜を張っていた。口をつける気にならない。肩は固まり、膝は痺れた。動いたら、その隙に空になりそうだった。わたしの腕の中も、膝の上も。


 窓の外はまだ黒い。通りの下で、夜番の兵が槍の石突きをこつ、と鳴らして角を曲がる。足音が切れてから、東の空の端だけが灰色にほどけた。


「ネル」


 呼んでも返事はない。昨夜のまま眠っている。起こさなくていい、と言った。起きていても寝ていても同じだ、とも。理屈は分かる。納得はしない。


 膝の痺れが痛みに変わるころ、ネルの体から金色がにじみ始めた。毛の隙間、耳の根元、前脚の先。熱ではない。手のひらを近づけても火傷の気配はなく、冬の朝の日差しに指を透かした時の、乾いた明るさだけがあった。


 窓の硝子に、膝へ猫を乗せた自分が映る。髪は乱れ、目は赤い。徹夜明けのひどい顔。逸らさなかった。ネルが消えるところで何かを見落とし、あとから自分を殴りたくなるのは嫌だった。


 初めは目の疲れかと思った。まばたきしても消えない。耳の縁、背中の線、尻尾の先。毛先一本一本が細い糸みたいに発光し、猫の輪郭をやめていく。


 外では朝番の鐘が一度鳴った。遠くで荷車の軸が軋む。パン屋は窯を開ける。兵は交代する。井戸の釣瓶が路地で跳ねる。その全部が、ネルの最後と関係ない顔で進んでいく。腹が立った。どうして鍋の火だけでも落ちてくれないのだろう。


 わたしは膝の上の重みを確かめる。まだある。けれど、手の下で一呼吸ごとに軽くなる。


「ネル」


 今度は返事があった。目が開く。金色の瞳の奥にも、同じ明るさが溜まっていた。


「起きてたのか」


「起きていません。今、起きました」


「変な返事をするのう」


「……行くんですね」


「行く」


 朝焼けが窓の下端に引っかかり、ネルの体を透かした。膝に乗っているのに、向こう側の前掛けの皺が見える。息が止まりかけ、喉で引っかかった。


「痛くないですか」


「腹いっぱいで眠い。痛む暇がない」


「最後まで食い意地ですね」


「猫じゃからのう」


 笑ったように聞こえた。いつも通りの声で。そういう顔をして、消えていく。


 喉が詰まる。吸った息が胸の真ん中で刺さった。落ちた雫はネルの背を濡らさない。毛に弾かれず、金色へ沈んだ。


「リーゼ」


「はい」


「厨房を止めるな。わしの分も、エルヴィンの分も……いや、腹を空かせた連中の分じゃ。鍋を振れ。焼け。煮ろ。お前は腹を満たす側に立て」


「作ります」


「教科書も書け。書いて残せ。消された名を、皿の下からでも引きずり出せ」


「やります」


「研究所の窓辺な」


「……はい」


「空けっぱなしにするな。空いた場所は腐る。花でなくてもよい。薬草でも、欠けた鉢に挿した草でも。毎朝、誰かが水をやる物を置け」


「分かりました」


 返事をしながら、膝に手を添える。抱え込むつもりだった。掴めない。金色が指の間から零れる。


「それと」


「はい」


「向こうでエルヴィンに会ったら言う。飯は旨かった、とな」


「伝えて、ください」


「ついでに、お前の弟子はお前より段取りがいいとも言ってやる」


「そこは事実です」


「即答か」


 ネルの髭が先にほどけた。頭の形がぼやけ、胴と尻尾が金色の塊へ畳まれていく。膝の重さがふっと抜けた。衣服には温度だけが、火から下ろした鍋底みたいに一瞬残る。


 次の瞬間、光が弾けた。


 粒になった金色が窓へ走る。硝子をすり抜け、朝焼けへ散った。空は灰から橙へ変わる。通りの屋根に日が触れ、誰かが桶を落とし、魚屋が寝起きの声で値を叫び始めた。


 膝の上には、何もない。


 空いた場所を見た途端、腹の底が遅れて冷えた。さっきまでの熱が抜けると、冬の朝が布越しに食い込んでくる。抱えていた両腕だけが置き場所を失い、変な形で宙に残った。膝の皺はすぐ戻らない。そこにいた、という証拠みたいで、余計に見られなかった。


 前掛けに金色の毛が数本落ちていた。光になりそこねた、本物の毛。わたしは指先で一本ずつ拾い、小瓶の蓋を開けた。


 廊下の向こうで、扉の軋む音がした。誰かが起きた。水桶を引きずる音、咳払い、鍵束。昨日洗った鍋を誰かが棚へ戻している。わたしは椅子から立たず、瓶の口だけを閉めた。


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