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【265】最後の晩餐

 魚の皮がはぜるたび、塩気の焦げた匂いが台所の梁にぶつかった。鶏の脂は竈の熱で重く、焼き林檎は鍋蓋の隙間から甘い湯気を逃がしている。研究所の台所に、腹の鳴る匂いばかりが溜まっていた。


 長卓は出さなかった。床に厚手の布を敷き、小皿を八枚、半円に置く。ネルの首が疲れない高さにはできないから、せめて目線だけ合わせる。普段は薬瓶や紙束の影が残る台所も、今だけは足を引っかける物がない。火を落とした竈から、まだ熱が膝へ来た。


 皿の向きを二度、三度直した。魚の尾は外。卵焼きの断面は前。林檎の皮が裂けたところは奥。最後の食事にしては小細工が多い。分かっているのに、指先がまだ皿の縁を押していた。


 ネルが台所に入ってきた。敷居の手前で足が止まり、髭だけが前へ出る。


「……多いな」


「全部、と言ったでしょう」


「言った。言ったが、これは猫に出す量ではない」


「一口ずつです。……だいたい」


「今の間は何じゃ」


「品数を削るのが嫌でした」


 手前の川魚の刺身は、塩と酢で締めて、端だけ白く縮ませた。朝一番の魚で、値札を見て一度財布を閉じた。結局、買った。ネルは鼻先を寄せ、一切れを歯先で切る。舌で転がし、飲み込むまで妙に長い。


「川の冷たさが残っておる」


「高かったです」


「そこは味ではなかろう」


「鮮度の話です」


 かぶと鶏骨のスープは、表面の脂を匙で何度も取った。器を床へ置くと、湯気がネルの髭を湿らせる。片目を細め、舌で掬うように飲んで、途中で鼻先を上げた。


「冬の味じゃのう」


「根菜を長めに煮ました。脂は、だいぶ捨てています」


「もったいない」


「重いと後が入りません」


 塩焼きは皮から齧った。ぱり、と小さな音がして、焦げた塩が布に落ちる。骨を前脚で押さえ、身を削り取る手つきは妙に慣れていた。百年も猫をやると、魚の骨くらい礼儀になるらしい。


「内臓が苦い」


「抜こうか迷いました」


「抜くな。そこじゃ」


 煮込みの器を寄せる。芋の角は一つ潰れ、人参の大きさも揃っていない。豆は最後に足したから、かぶより少し硬い。それでも鶏出汁を吸って、匙で押すと湯気が立った。ネルは熱を逃がすように顔を近づけてから、舌を出す。


「お前は煮込みが上手くなった」


「配給で鍋ばかり見ていました。焦がした鍋もあります」


「数をこなした味がする」


 鶏のローストに移ると、ネルの背中が低くなった。皮の下に押し込んだ薬草が、脂と一緒に香る。ナイフで裂けば、湯気が手首に当たった。ネルはここで食べる速さを落とし、肉を噛み、皮を噛み、骨の際まで舐め取る。


「グスタフの気配がするのう」


「市場で会いました。薬草を押し付けられました」


「相変わらず無愛想な男か」


「はい。値切ったら目で殺されました」


「肉は良かろう」


「良いです。腹立つくらい」


 甘い卵焼きは、出す直前まで端を切り落とすか迷った。昼にも作ったが、夕方の分は火を早めに止めている。表面を乾かしすぎず、中心だけ柔らかく。鍋から上げた直後に巻き簾で締め、切る前に蒸気を落ち着かせた。皿を置いた瞬間、ネルの耳が立つ。


 一口食べて、動きが止まった。台所の時計が一つ鳴る。余計な音だと思った。わたしの喉は動かない。


「……エルヴィンの味じゃ」


「昼の配合を変えました。甘みを減らして、卵の匂いを残して……あとは、火です」


「そこまで寄せるか」


「寄せたかったので」


 ネルは返事をせず、残りを食べた。皿の角の卵片まで舌で追う。前脚が陶器を押さえ、爪が小さく鳴った。顔を上げるまで、こちらを見なかった。


 焼き林檎は皮が裂け、果肉が崩れていた。パンは温め直しで少し硬くなり、バターを多めに乗せてごまかした。ネルは文句を言わない。焦げた端から食べ、バターの残った皿まで舐める。髭を拭い、次の皿へ行き、また戻って匂いを確かめる。礼法などないのに、順だけは乱れなかった。


 空になった皿を見て、水差しを差し出した。手が濡れている。洗い物の水なのか汗なのか、見ないことにした。ネルは二口飲み、膨らんだ腹でこちらを見上げる。


「入るものですね」


「猫の胃袋を甘く見るからじゃ」


「味は」


「全部、美味かった」


「今日の料理が、ですか」


「今日だけではない」


 ネルは台所の床を一歩、二歩進み、そのままわたしの膝へよじ登った。飛ぶには腹が重かったらしい。ずしりと沈む。前掛け越しに、丸く張った腹が分かった。


「この二年、お前が出した飯はだいたい全部旨かった。言わんかっただけじゃ」


「言ってください」


「毎回褒めたら調子に乗る」


「今なら乗ります。たぶん天井まで」


「落ちてこい」


 ネルの喉が低く鳴った。笑っている。わたしは頭を撫でた。柔らかな毛に、火の匂いと魚の匂いが混じっている。食後の重たい体が膝へ沈み、前脚の先が前掛けに食い込む。爪を立てるな、と言いかけてやめた。


「悪くなかった」


 寝息に混じるほど小さい。聞き返したら、たぶん噛まれる。


「寝ますか」


「寝る。起こすな。日の出で勝手に行く」


「勝手に」


「見送りはいらん」


「最後に何か言い残すことは」


「今言った。後は要らん。この膝の上で終える」


 ネルは目を閉じ、体を丸めた。胃の重みが前掛けを引く。喉の音は途中で途切れ、寝息に変わった。皿の脂が冷めて白く縁へ固まりはじめる。洗い桶には骨を入れた小皿がまだ二枚残っていた。わたしは背中と膝が痺れても、どちらにも手を伸ばせなかった。


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