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【264】最後の買い物

 銅貨の枚数を、歩きながら三度数え直した。


 石畳に昨夜の雨が残り、荷車の轍だけ黒い泥になっている。朝市は店を開ける音と怒鳴り声でまだ荒い。魚桶を返す水音。締めた鶏の羽と血の匂い。窯から抜いたばかりのパンの麦の湯気。いつもなら値と重さと傷だけを見る。なのに財布の紐を結んでは解き、目だけ先に走って、手が追いつかない。


 胸元の袋には、昨夜のうちに書いた献立表。魚の欄には刺身と塩焼き、横へスープ、煮込み。鶏の文字は大きすぎて、卵焼きと焼き林檎が端へ追いやられ、パンは後から押し込んだ。紙の角は汗で丸まっていた。歩きながら指でなぞり、鍋を置く順番を何度もずらす。買い忘れは、取り返せない。


 魚売り場へ入ると、氷の上に川魚が五尾だけ残っていた。銀色の腹が朝日にぎらりと返り、尾の端は硬く反っている。指先で背を押す。きゅっと弾力が戻る。爪の下に冷たさが入り、速い流れと石の匂いまで一緒に来る。


 ――これがいい。脂は軽い。皮を焼けば香りが立つ。


 五尾とも包ませた。塩焼きに二尾、刺身に二尾。残りは事故のため。最後の食事で予備と言うのは腹が冷えるが、料理人は縁起より失敗率で動く。財布から銅貨が数枚消えた。


 卵屋では籠を二つ膝で押さえ、殻を指で弾いた。厚いもの。黄身の色が濃そうなもの。甘い卵焼きは、水が出ると負ける。


「今日は多いねえ、リーゼちゃん」


「最後の……食事なので」


 女将は唇だけ動かして、それ以上は聞かなかった。欠けのない卵を十個、手を止めて二個足し、藁を厚めに詰めてくれる。礼を言う前に、女将は隣の客へ声を張った。


 根菜売り場では、土つきのかぶを三つ、人参は曲がりの少ないものを二本、芋と豆を袋の底へ押し込む。かぶの葉は青く辛い匂いがした。芋は湿った土の重さがある。煮込みにすれば甘みが出るし、スープにも逃がせる。林檎は小ぶりで皮が締まったものを四つ。指で叩くと乾いた音が返った。


 香草屋で乾燥葉をつまみ、魚に使う塩の粒を舌の先で確かめた。粗すぎれば皮に乗らない。細かすぎれば身を締めすぎる。店主が「高い方か」と目で聞いてきたので、半量だけ、と指で示す。最後だからといって、銀貨を投げるほど余裕はない。


 肉売り場の角で、聞き慣れた低い声が飛んだ。


「おい、嬢ちゃん。その顔で鶏を脅すな」


 振り向くと、グスタフが腕を組んでいた。相変わらず熊みたいな肩幅で、革の前掛けには血の跡が乾ききらずに黒く残っている。


「脅してません。選んでいます」


「睨んでる。寝てねえな」


「……肉屋は顔まで見ますか」


「刃物持つやつの顔は見る」


 グスタフは台の上の鶏を二羽転がし、迷わず片方の脚を掴んだ。胸が厚い。皮に張りがあって、首のあたりの脂が白い。


「こっちだ。脂がある。薬草を使うなら負けねえ」


「ください」


「宴会か」


「猫一匹分です」


 グスタフの眉が動いた。聞かない。鈍くもない。視線がわたしの目元で止まり、それから台の下へ落ちる。乾燥薬草の束が、鶏の上に置かれた。


「持ってけ。薬草はつける」


「代金は」


「今日はいい。次に肉を焼く時、感想だけ寄越せ」


「それは仕入れとして成立しません」


 銅貨を三枚、台に押しつけた。グスタフは舌打ちして、一枚だけ指ではじき返す。わたしは二枚分の鶏と薬草を抱え、はじかれた一枚を握り込んだ。


 パン屋では焼きたてを一本、乳脂の強いバターを一包み。袋の紐が指に食い込み、途中で持ち替えると林檎が袋の中でごろりと鳴った。市場を出るころには肩が張っていた。止まると数を忘れそうで、そのまま歩いた。


 研究所の台所に食材を広げる。魚は五尾、卵は十二。根菜と豆、鶏、林檎、パン、バター。薬草は濡れないよう端へ寄せた。調理台がすぐに埋まる。買ってきた分だけ、失敗した時の逃げ道も増えた。使い切れなければ、ただの重さになる。


 水桶へ魚を沈め、かぶの葉を水に放す。泥が沈むまでの間に、鶏の関節へ包丁の背で印をつけた。指先が冷えて、紐の跡がまだ赤い。ネルは台所の入口まで来て、鼻先だけを出した。薬草の匂いに耳が動く。


「まだ。席についてから」


 ネルは返事をしない。しないくせに、尻尾だけ床を一度叩いた。


 紙に段取りを書き足す。鶏の骨は先に鍋へ沈める。根菜の下茹での横で魚をおろし、手が空いたら二尾へ塩。卵焼きは焦って焼くと水が泣くから、最後まで触らない。焼き林檎は食事の匂いが落ちるころ竈へ押し込む。皿は小さいものを八枚――多い。洗い物も増える。けれど減らさない。


 竈の前に立つと、煤の匂いが鼻に入った。火口に薪を組み、火打石を打つ。散った火花が藁屑に移り、赤い点になって、すぐ煙を上げる。


「今日は全部当てる」


 鍋が温まるあいだに、皿を磨いた。猫用には贅沢なくらい白い皿だ。布で拭くたび、欠けがないか指の腹で確かめる。四枚目で水滴が残り、拭き直した。八枚目を伏せるころには、棚の金具まで湯気で白く曇っていた。


 包丁を研ぎ石へ当てる音が、やけに乾いて響く。刃を布で拭う。紐で赤くなった指がひりついた。鍋が一度、ぼこりと鳴る。


 わたしは最初の魚の腹に、刃を入れた。


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