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【263】百年の記憶

 窓辺ではなく、わたしの膝の上で、ネルが口を開いた。


 昼の光が研究所の床に長方形を落とし、その端で紙片が一枚、風もないのに震えている。書斎の暖炉には火を入れていない。それでもネルの体は、膝にずしりと温かかった。目を閉じたまま、喉も鳴らさない。


「やはり、あの男は不器用じゃった」


「料理が、ですか」


「全部じゃ。料理も研究も、人付き合いも。下手なくせに、手を出す範囲だけは広い」


 わたしはネルの背を撫でる。毛並みの下に、細くなった骨が指先に触れた。


「例えば?」


「市場に行くじゃろ。売れ残った野菜の声を全部拾う。『今日は買ってくれ』だの『畑主が泣いておる』だの聞こえてしまうから、放っておけん。傷の入った蕪だの、萎びた葱だの、籠の底が抜けそうなほど抱えて帰る。その日の研究費から銀貨が消えて、本人は足りん足りんと唸る」


「わたしにもありえそうで笑えません」


「お前は値札を見てから拾う。あの男は値札の前に腕を出す」


 わたしは笑い損ねた。ネルの尻尾が膝の上で一度だけ動く。


「料理も、まっすぐ行けん男じゃった。出汁ひとつ取るのに、食材の声を全部聞いて組み合わせを変える。旨い。だが時間がかかる。腹を空かせた人間を待たせるのが下手でのう。自分の睡眠と銅貨で帳尻を合わせる」


「仕事の進め方が悪い」


「その通りじゃ。……そういう男じゃったからの。わしは最後まで付き合った」


 ネルの耳が、わたしの腹に触れる角度で揺れた。


「机もひどかった。調味料の試算表と魔術式と市場の紙、その間に焦げたパン屑じゃ。そこへ肘をついて眠る」


「腹にインクがつきます」


「ついた。起きて笑って袖で拭く。袖も汚れる。あれで整理整頓を知っているつもりじゃった」


 ネルは鼻を鳴らした。


 窓の外で荷馬車の車輪が鳴った。車軸がきしみ、研究所の敷地の向こうへ遠ざかる。今の帝都の生活音なのに、ネルの話を聞いていると、紙の上の古い染みまで動き出しそうだった。


「わたしも、同じようになりますか」


「全部は似ん。お前は現実的じゃ。材料が足りん時は足りんと認める。代替案を出す。あの男は足りんまま突っ走る」


「それは料理人として困ります」


「じゃから、お前の方が店を回せる。皿を出す数も、残す銅貨も数えるじゃろ」


 ネルが目を開けた。金色の瞳孔が細く光り、こちらを見上げる。


「死んだ日のことを話す。一度だけじゃ」


「聞きます」


 返事が喉で擦れた。背を撫でていた手を止めると、毛の温みだけが指に残る。聞き漏らさないよう、息を詰めた。


「朝だった。霧が濃くてのう。あの男は卵焼きを焼いた。甘いやつじゃ。端を焦がして、焦げたところだけ自分で口に押し込みおった。書類の束を脇に挟み、コートは片袖だけ。残りは歩きながら着るつもりで、出ていった。いつも通りの雑さじゃ」


 ネルの声は平たいままだった。こちらの喉だけが詰まる。


「日が落ちても帰らん。朝が来ても足音がせん。三日目に門の前へ行った。霧は晴れておった。評議会の人間が三人。靴は磨いてあった。裾だけ泥だらけじゃった」


「泥」


「郊外へ出た帰りの泥じゃろう。わしを見て、何も言わん。香水で包んでおったが、鉄の匂いは残る。あの時、分かった。聞かされる前に」


 わたしの指が止まる。ネルはそれを気にせず続けた。


「遺体は出てこん。研究所も荒らされた。皿まで割られた。じゃが、あの男は抜け目がない所もあった。大事な資料は聖域に隠しておった。わしにだけ分かるように。残った仕事は、考えるまでもなかった。次を待つ。それだけじゃ」


「復讐は考えなかったんですか」


「考えたとも。喉元に爪を立ててやりたい夜は何度もあった。だが、猫が政治を動かせるか。証言台に乗せて信じるか。爪で一人裂けば、資料も聖域も燃やされる。できることは待つことじゃった」


 百年。石畳は何度も敷き直され、看板は剥がされ、書き替えられた。戦の年、パンは指二本分細くなり、粉袋の底まで掃く音が増えた。ネルは、その音を窓辺で聞いていた。


「長かったですか」


「長かった。腹も減ったし、退屈もした。戦が起きれば食が荒れる。凶作の年は市の匂いまで違う。捨てられる皮が薄くなる。粥に混ぜる草が増える。店が潰れて煙突だけ残る。……悪いことばかりでもなかった。途中から、お前もおったしのう」


 膝の上の体温が、今ここにある。明日、と頭では読めるのに、手はまだ毛並みを探した。


「最後の飯、頼む」


「何がいいですか」


「全部」


「全部、は曖昧です」


「お前の得意なものを、出せるだけ出せ。一食で食う」


 わたしは横の机から紙を一枚引き寄せた。炭筆を走らせる。魚は小さく焼けばいい。卵は甘いのと塩の二通り。根菜は潰して、鶏は皮だけ先にぱりっと。林檎、パン、スープ。腹に入る量から逆算すれば、ひと口ずつでも皿は並ぶ。


「胃袋が保ちません」


「猫の胃袋を舐めるな」


「量は削ります。味と品数を残します」


「それでよい」


 紙の端に仕込み順と火口の数を書き込む。薪は足りる。卵はあと六つ、魚は朝市で小さいのを選べばいい。炭筆の先が紙に引っかかった。粉が一筋、ネルの背に落ちる。払おうとして、手を止めた。ネルは目を閉じたまま、膝から降りなかった。


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