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【262】残された時間

 洗面台の鏡に、腫れた目が映っていた。この顔で鍋の湯気を浴びたら、誰かが余計なことを聞く。冷水を何度も掬ってまぶたに当て、布で押さえた。まだ赤い。包丁を握れないほどではない。


 台所に入ると、石床の冷たさが靴底から上がってきた。昨夜洗った鍋が棚で乾き、竈の灰は白く沈んでいる。窓からの光が調理台の木目を浮かせていた。窓辺にはネル。丸くなって寝ている形だけ作って、耳の先だけがこちらの足音に合わせて動いた。


「ネル。起きてますよね」


「寝ておる」


「返事をした時点で起きています」


 金色の片目が開いた。わたしは調理台に帳面を置き、炭筆の先を押しつける。手を止めたら泣く。残り三日。食事で数えれば九回。間食を足せば増やせるが、胃袋は一つで、ネルの体も一つだ。


「三日間で、何がしたいですか」


「特にない」


「却下です」


「朝から強いのう」


「最後だから聞いてるんです。食べるものでも、場所でも、景色でも。……黙って済ませないでください」


 ネルは前脚を伸ばし、爪を立てずに窓枠を押した。


「お前の飯を食う。それで足りる」


 帳面に、朝、昼、夜、と乱暴に線を引いた。三日分で九枠。欄外に小さく「間食」と書き、すぐ塗りつぶす。白いところが多いと息が詰まる。保存できるか、仕込みにどれだけ鍋を塞ぐか、温かいうちに出すものはどれか。炭筆の粉で指先が黒くなった。


「具体的に。リクエストを」


「魚」


「種類は」


「川魚。皮がぱりっとしたやつ」


「他は」


「卵焼き。甘い方じゃ」


 炭筆が止まった。


「甘い卵焼き」


「エルヴィンが毎朝焼いてくれた。猫に甘い物はよくないと言いながら、自分で砂糖を入れすぎる。毎回じゃ。口と手が喧嘩しておる男だった」


 炭筆の先が紙にめり込んだ。聞き返す声が揺れないよう、舌の奥を噛む。


「味は覚えていますか」


「舌は覚えておる。分量は知らん。あの男、量るのを面倒くさがった」


「なら、そこから拾います」


 市場は濡れた板の上まで声でいっぱいだった。魚売り場には水と鱗の匂いが立ち、木箱の氷が朝日に溶けて光っている。卵籠を抱えた女将が、欠けた殻の分は安くすると言う。割り損じを考えれば十二個ほしい。けれど腕が足りない。卵は十個で止める。川魚三尾を藁の横に押し込み、砂糖の包みは上へ。塩、油、酒。籠が傾くたび卵が鳴る。パンの甘い匂いは通り過ぎた。飾りに使う金も時間もいらない。


 研究所に戻るころには、腕に食い込んだ袋の持ち手で指先が赤くなっていた。台所の水桶に魚を入れ、卵を布の上に並べる。殻同士が軽く触れて、乾いた小さな音を立てた。


「ネル。こっちへ」


 呼ぶと、ネルは台所まで歩いてきた。足取りはいつもと変わらない。わたしは布巾を握り潰す。普通の足音が、腹の底を引っかいた。


「何じゃ」


「触ります。味の記憶を拾いたい」


「便利な力を手に入れたのう」


「仕事です」


 ネルは調理台に飛び乗り、頭を差し出した。わたしは両手を洗い、毛並みに触れる。柔らかい。温かい。爪の付け根に残った冷水の感覚が消えて、その奥から、別の朝が流れ込んできた。


 薄暗い台所。窓の外は霧。若い男の指が卵を割る。白衣の袖口に黄身が跳ねても、本人は見ていない。砂糖壺の蓋を開け、ためらいなく大さじを三回。多い。いや、多すぎる。なのに鍋を温める火だけは丁寧で、油の膜もむらがない。最初の一巻きは崩れた。男は苦い顔でそれを口に押し込み、二巻き目だけを皿の中央へ置く。皿の横には金色の仔猫。尻尾で床をぱた、ぱた、と叩いて待っている。


 記憶の中の甘い匂いまで分かった。砂糖だけではない。卵の生臭さを消すため、酒を一滴ではなく指で二度弾く量。油はバターではない。癖の弱い菜種油。


 手を離すと、現実の台所の明るさが戻った。胸は詰まる。けれど鍋は待たない。


「卵三つ。砂糖は大さじ三、山盛り寄り。酒は指で二度。油は薄く、菜種」


「本当に拾いおった」


「再現します」


 卵を切るように溶く。砂糖は底に残りやすいから、箸で底を掻いた。鍋に油を引くと、甘い香りが立つ前にネルの耳がぴくりと動く。一巻き目の端が破れた。そこはわたしの口へ放り込む。二巻き目を重ね、火を外し、余熱で落ち着かせてから切った。断面は黄色が濃く、包丁に薄く蜜のような艶がついた。


「味見を」


 ネルは皿の縁に鼻先を寄せ、一口かじった。咀嚼の音は小さい。二口で止まると思ったら、三口めが入った。皿の上の卵焼きが、端からまっすぐ減っていく。


 食べ終えてから、ネルは舌で口元を舐めた。


「……あの男の味じゃ」


 それだけ言って、皿の表面まで舐め取った。わたしは端の切れ端を一つ口に入れる。甘い。だが砂糖だけではない。卵の厚みと、酒の細い香りが残る。知らないはずの朝が舌の奥にいて、邪魔だった。


 帳面の一番上に、甘い卵焼き、と書き足す。隣に、再現済み。残り八食。欄外の間食をまだ諦めない。火を止める時間ではない。


「次は何を出しますか」


「昼は塩焼きじゃ。骨まで食えるように頼む」


 帳面の次の欄へ、川魚の塩焼き、と書く。塩の欄に丸だけ打つ。身の張りと脂を見ないと決められない。帳面に決めさせるわけにはいかない。


 わたしは魚の鱗取りを掴んだ。銀の鱗が、爪の際に入った。


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