【261】ネルの告白
書きかけの献立表の脇で、インク皿の膜がひび割れていた。
椅子を引こうとして、床板の冷えが足裏に上がる。机のランプだけが紙の端を丸く照らし、窓辺のネルの背中は、いつもより一回り硬い。
いつもの場所だ。けれど腹は見せていない。丸まってもいない。前脚を揃え、背筋を伸ばし、尻尾を脚に巻いたまま、動かない。金色の目だけが窓の外を見ていた。
「ネル」
「リーゼ」
名前で呼ばれた時点で、口の中が乾いた。ネルがわたしをそう呼ぶ時は、皿を割ったくらいでは済まない。
「話がある」
「……聞きます」
椅子を引く音がやけに大きかった。座ったのに落ち着かず、膝の上で指を組む。爪の下まで冷えている。
「わしの仕事が終わった」
エルヴィンから百年前に託された仕事が、頭の中で嫌でも形になる。次の食の大賢者――わたしを見つけ、育て、覚醒まで導くこと。吸った息が胸で止まって、うまく吐けない。
「終わった、って」
「そうじゃ。わしは、ここに留まる理由を失った」
胃のあたりが冷えた。組んだ指に力が入り、爪が皮膚に食い込む。窓の外の月明かりが、書斎の床の節目を白く浮かせている。その白さまで遠く見えた。
「どこかに行くんですか」
「エルヴィンの所にじゃ。百年待たせた。あの男は気が長いふりをするが、内心では文句を溜め込んでおる」
ネルの声は平坦だった。冗談の形をしているのに、笑うところがない。
「向こう、というのは」
「死後の世界と呼びたければ呼べばよい。名はどうでもいい。わしの命は本来、百年前で尽きておった。猫は二十年生きれば長い。それを百二十年まで引き延ばしたのが、エルヴィンの最後のエッセンスじゃ」
ネルの前脚の爪が、窓枠に浅く食い込んでいた。今まで気づかなかった。平然としているように見えて、力は入っている。
「エルヴィンが殺される直前に、自分の残りを全部わしに押し込んだ。研究資料の隠し場所も、次にやるべきことも、その時に託された」
「代償は」
「代償というより、あの男の残り時間そのものじゃのう。自分で使うはずだった命を、わしの腹に詰めた」
文鎮の下の紙が一枚、ランプの熱で反っている。押さえたいのに手が動かない。
「延長は、まだ保つんですよね」
「数年は保つじゃろうな」
「なら――」
「行く」
短く切られた言葉が、机の角みたいに硬く落ちた。
「仕事のために借りた命じゃ。終わった後まで抱えて寝るのは、わしの流儀ではない。エルヴィンの力で昼寝を増やすほど、面の皮は厚くない」
「そんな言い方」
「事実じゃ。未練で居座れば、借り物を盗むのと変わらん」
反論を探した。研究資料、今後の教科書、宮殿への移転、婚約後の段取り、配給路。実務なら山ほどある。けれど紙に書き出したところで、それはネルに割り振る仕事ではない。わたしの皿だ。そこを取り違えたら、きっと叱られる。
「いつですか」
「三日後の夜明け。日の出と共に」
「三日」
計算してしまった。今夜の夕食を入れて十回。夜明け前に食べないなら九回。魚を煮る鍋、肉を叩く時間、茶葉の残り。頭は勝手に台所へ逃げる。そんな数え方しかできない自分が嫌になる。
「短いです」
「十分じゃ。お前の覚醒も見た。婚約も決まった。先の段取りが立った。わしが座る場所を空けても、世界は動く」
「わたしは、動かないかもしれません」
机の隅には、明日の献立を書きかけた紙が置いてあった。魚、豆、かぶ。市場の魚は朝一番でなければ痩せたものしか残らない。普段なら何の感慨もなく処理する文字が、今夜は重い。ネルの残りの食事を指折りで数えかけて、拳にした。
「動け。台所が止まると腹を空かせるやつが出る」
ネルがようやくこちらを向いた。月明かりで毛先が白く縁取られている。年老いた猫だと、初めてはっきり見えた。金色の毛並みの間に、白に近い薄い毛が斑に混じっている。
「誰かには話したんですか」
「まだじゃ。最初はお前に言うと決めておった」
息が詰まる。ランプの炎が水の向こうみたいに歪んだ。
「顔がひどいです」
「台所に立つ前なら構わん。塩を余分に掴むな」
袖口が湿る。ネルは窓辺から降りず、ただ見ていた。
「三日間、何をすればいいですか」
「飯を作れ。普段通りにな」
「普段通りは、無理です」
「なら、普段通りに見えるように動け。得意じゃろ、そういう嘘は」
悔しいが、その通りだった。顔がひどくても献立は組める。買い出しの順番も、保存の段取りも、薪の残りも数えられる。
「……分かりました。紙を出します」
「何を書く気じゃ」
「思いついたものを全部です。食べたいもの、会わせたほうがいい人、片付け……いえ、残しておくと危ないもの。あと薬。痛み止めは効きますか」
「確認事項が多いのう」
「三日しかありません。市場の取り置きも、宮殿に走らせる伝令も、今ならまだ間に合います」
ネルの髭がぴくりと揺れた。笑ったのだと分かった。
「茶じゃ。喉が渇いた」
わたしは立ち上がった。足が椅子の脚に当たり、鈍い音がした。棚から茶葉の缶を取る。いつもの缶なのに、蓋がなかなか開かなかった。




