【260】新しい朝
朝の卓に、ソフィアさまの紙束が斜めに倒れかけていた。
公式発表の文面、衣装屋に渡す寸法、各国へ走らせる使者の順番。封蝋代まで赤字で入っている。三日後に婚約を発表する、と書かれた一枚は、皿の下に滑り込む寸前で止まった。
わたしは返事を書いた覚えもないのに、朝ごとに卓上の紙が指二本分ずつ高くなる。献立表ならまだ読めるが、儀礼の紙は見ているだけで肩が凝る。誰がどの扉から入り、何歩で止まり、どの国に先に知らせるか。料理なら鍋を見れば焦げる前に分かるのに、政治の焦げつきは紙の上では匂わない。
ソフィアさまは紙山から必要な一枚だけ抜き、わたしの前へ滑らせた。包丁を持たないのに、手際だけは料理人みたいだ。
「リーゼさん。あなたは何もしなくていいのよ。ただ——研究所の引き継ぎだけ考えてちょうだい」
「引き継ぎ? 研究所は続けます」
「続けるのは結構。だけど皇后が毎朝、城門を出て研究所まで通うとなると、護衛が半日潰れるわ。最低でも十人。馬車と先触れも要る。宮殿内に分室を作る方が安いし、早いの」
「宮殿に——台所を?」
「台所ではなく研究室。教科書の執筆と、エッセンスの研究が続けられる場所。調理設備は付けるけれど」
ソフィアさまが微笑んだ。わたしが口を開く前から、次の紙を指先で押さえている。反論できる隙はある。隙だけだ。
マティアスさんの理屈とも、カイゼルの強引さとも違う。柔らかい布で包まれているのに、中身は鉄だ。逃げ道がない。
研究所へ行くと、窓からの光はいつもと同じ角度で机を照らしていた。清書中の原稿が積まれ、インク皿の縁に黒い膜が張っている。昨日までと同じ過ぎて、口に出す前に喉の奥が乾いた。
「アリア。わたし——皇后になります」
「知ってます」
「え」
「グスタフさんが言ってました。三日前の夜に」
「三日前——わたしがまだ考え中の時に?」
「グスタフさんが『あの馬鹿は絶対受ける。賭けてもいい』と。賭ける相手はいませんでしたけど」
グスタフ。余計なことを。
「研究所は、アリアに所長をお願いしたいです」
その瞬間、アリアの肩が跳ねた。ペン先が紙を突き、乾きかけの一行に黒い点が落ちる。彼女は布を探したが、もう滲んでいた。
掃除の順番、火の始末、清書の癖、配給路の帳面。研究所の回し方なら彼女が一番よく知っている。わたしより丁寧なところもある。
「わたしがですか」
「あなたが。教科書の清書も、配給路の管理もできる。所長手当は出します。全部ひとりで背負わなくていいように、人もつけます」
「嫌なら嫌と言ってください」
「嫌じゃ、ないです。でも——リーゼさまが来なくなるんですか」
「来ます。毎週……式の前後は崩れるかもしれません。儀礼が邪魔をするので。でも来ます。来られない週は原稿を送ります」
「……約束ですよ」
「約束。破ったら、スープを焦がした時の顔で怒っていいです」
ネルは何も言わなかった。窓辺に座ったまま、尾だけを二度動かす。紙の音にも肩書きにも興味がない顔だ。
「ネル」
「ん」
「宮殿に来ますか。研究所に残りますか」
「お前の傍におる。どこでもな」
「宮殿の猫になるんですか」
「皇后の猫じゃ。格が上がったのう」
ネルがふあ、と欠伸をした。格など気にしていない。百年も生きた猫に部屋割りの相談をしても、答えは結局、寝床と日当たりなのだろう。
配達された朝刊は、思ったより薄い紙だった。
帝都の新聞に載っていた。「新皇帝カイゼル陛下、エッセンス研究者ヴァイスフェルト・リーゼとの婚約を発表」。
開くと、インクの匂いがまだ新しい。自分の名前が活字になるのは妙な気分だ。教科書の表紙とは違う。新聞の文字は、読む人間に考える暇を与えず、事実として先に押しつけてくる。
料理人とは書かれていなかった。「エッセンス研究者」。まあいい。料理人でも研究者でも、同じことをしている。
新聞を畳むと、指先に黒い粉がついた。さっき玉ねぎを刻んだ匂いと混ざり、活字より台所が勝っている。
朝ごはんは作った。カイゼルの分と自分の分。パンを炙り、鍋の底を木べらでこそげ、卵を半熟で止める。果物はカイゼルの皿に二切れ多く置いた。新皇帝陛下は忙しいくせに、酸っぱいものから先に食べる。
皿を洗って、原稿の束を開いた。
教科書の続きだ。肩書きが一つ増えたくらいで、締切は一日も延びなかった。




