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【259】リーゼの答え

 パン種を叩きつけると、粉が手首まで跳ねた。


 深夜。誰に出すわけでもないのに竈へ火を入れ、スープの鍋を出す。卵は六つ割った。魚の腹には塩を擦り込む。指先が生臭くなるくらいの方が、今はましだった。


 粉を量る。秤の針が二度揺れ、入れすぎた分を指で戻す。生地が硬い。塩が足りない。皇后という言葉は棚の奥に押し込んだつもりでも、包丁を置くとすぐ転がってくる。


 腹が減ったまま考えると、判断が荒い。先に作る。


 包丁を下ろすたび、まな板の音で考えかけた言葉を潰す。鍋を混ぜると、焦げつきそうな考えだけ底に残る。焦げは嫌だ。後で落とすのに腕が痛い。


 皇后になったら、台所に立てるのか。


 カイゼルは立てると言った。法律にないなら作らない、とまで言った。けれど、礼法係は袖を掴む。式典の髪飾りを外す間に小鍋の火は強くなる。護衛が厨房の入口を塞げば、湯気は逃げず、人が詰まる。外交の晩餐の後、朝の仕込みに包丁を持って、指を切らないと言い切れるのか。


 研究所も教科書も、切らないと言った。紙代、講師代、護衛、馬、宿。数字の話で逃げなかったから、そこは信用する。


 信用するが、皇后の名で出た教科書は、ただの料理人の手引きで済まない。誰かの利になる。誰かの面子を削る。配給路を一本伸ばすだけでも、喜ぶ町と黙る町が出る。鍋の底の焦げより面倒くさい。


 考えすぎて、魚の片面が白くなった。


「あ」


 塩を振りすぎた。慌ててこそげ、指先で舐めて顔をしかめる。こういう失敗は分かりやすい。水に浸すか、焼き方を変えるか、捨てるか。捨てるなら材料代が痛い。


 人生はどの樽で塩抜きすればいいのか、誰も教えてくれない。


 ネルが台所の隅で丸くなっている。寝たふりだ。耳だけこちらを向いている。


「ネル」


「寝ておる」


「起きています」


「ん」


「エルヴィンは、結婚していましたか」


 ネルの尻尾が一度だけ床を叩いた。


「しておらん」


「なぜ」


「聞かなかった。あの男は研究に夢中で、そういうことを後ろへやった。後ろへやったまま、死んだ」


「後回しにして死んだ」


「そうじゃ」


 火が小さく爆ぜた。鍋の縁から泡がひとつ落ちる。


「お前は、後ろへやる人間ではなかろう」


「やりたくないです。でも、怖い」


「何が」


「変わることが。研究所の炉と、台所と、アリアの机と、ネルの寝床と。朝の匂いまで別のものになるのが」


「匂いくらい連れていけ」


「そんな簡単に」


「簡単ではない。だから持っていくんじゃ」


 猫のくせに、こういう時だけ面倒な正論を言う。


「皇后の衣装で竈の前に立ったら燃えます」


「袖を切れ」


「怒られます」


「怒らせておけ」


「ネル」


「お前は場所が変わっても台所に立つ。立てぬなら鍋を持って押しかける。そういう女じゃ」


 暗がりで、ネルの目だけが金色に光る。きれいというより、逃げ道を塞ぐ色だった。


「エルヴィンは後回しにして死んだ。お前はするな。腹が減っておる時に、目の前の皿を眺めて冷ますな」


「カイゼル陛下は皿ではありません」


「最高の食材でもある」


「それはどうかと思います」


「料理人なら、見極めろ」


 最高の食材。


 カイゼルを食材に喩えるのは、やはりどうかと思う。思うが、火加減を間違えたくない相手ではあった。


 窓の青みが粉袋の口に差し込んだ。竈の灰を均す頃には、背中がばきばき鳴る。答えは出ないまま、手は朝食の支度へ移っていた。


 パン。薄めのスープ。卵は二つ。果物は切りすぎない。二人分。


 木の盆を両手で抱え、宮殿へ向かった。朝の七時。廊下の石はまだ冷たく、盆の底の熱だけが指に残る。カイゼルの執務室では、封蝋の割れた書状が積まれていた。税報告の束、署名待ちの羊皮紙、乾いたインクの匂い。


「朝ごはんを持ってきました」


「答えは」


「冷めます」


「答えは」


「卵が固くなります」


 カイゼルは一拍だけ黙り、椅子を引いた。勝った。


 皿を並べる。木の盆は銀の文鎮と税報告の間で妙に浮いたが、カイゼルは書類より先にパンへ手を伸ばした。そこだけは信用できる。


 パンを千切る。スープを飲む。卵の黄身が皿の上で崩れる。冠の下にいる男が、黄身をパンで拭って食べている。豪華な晩餐より、こちらの方が困った。毎日続く形が、見えてしまう。


「美味い」


「ありがとうございます」


「で」


「はい」


「何に」


「昨日の件です。答えは、はい」


 カイゼルの手が止まった。パンを持ったまま、まばたきもしない。


「……そうか」


 それだけ言って、パンを口に入れた。噛むのが遅い。喉が一度だけ動いた。


「条件があります」


「言え」


「毎朝、朝ごはんはわたしが作ります。厨房の鍵はわたしが持つ。火をつける時間を削られたら怒ります。袖が邪魔なら切ります。止める役人がいたら、陛下が引き取ってください」


「当然だ。他の人間の飯は食わん。役人は俺が黙らせる。袖は……燃やすな」


「燃やさない努力はします」


 卵の黄身が書類の端へ流れそうになった。


「陛下、布巾」


「そこにある」


「取ってください。皇后予定者は今、パンを持っています」


 カイゼルが布巾を取った。机の書類を一束ずらし、朝食の場所を一皿分広げた。封蝋の欠片が皿の下から出てきたので、わたしは指で払った。はい、と言った後の手はまだ使い物にならず、パン屑が余計に散った。



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