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【150】返書の籠

 茶碗の縁にまだ湯気が残っているうちに、返事を出す話になった。


 黙殺すれば、次はもっと強い皿が来る。剣で返せば、ダリアが開いた料理の隙間をこちらから閉じることになる。誰も「そうしよう」とは言わない。けれど卓の上では、手だけが先に止まっていた。


「応えるなら、何を送る」


 フリードリヒ将軍が聞いた。


「こちらの貴重な食材は使いません」


 わたしは答えた。


「ロレンツォさんの樽は残りが少ない。エマさんの酵母は、代えがききません。ハンスさんの燻製も、いま兵の腹を支えています。敵陣へ一本渡すだけでも、意味が重すぎる」


「では何を」


「空っぽの食材を送ります」


 将軍の眉が動く。


「向こうがこちらへ見せたことを、こちらからも返すのか」


「はい。けれど同じにはしません。ダリアが空にした食材ではなく、はじめから誰の顔も置かずに作ったものを。……彼女がどう扱うか、見たい」


 殿下が腕を組んだ。


「対話というより、勝負だな」


「料理で話すなら、勝負は混じります」


「お前らしい」


 その言葉だけで、許可は出た。



 * * *



 空っぽの食材を作るのは、灰色の粥を作るのとは別の難しさがあった。


 悪いものを混ぜないだけなら、手を洗い、鍋を洗い、傷んだところを捨てればいい。

 困ったのは、良い顔まで締め出すことだった。手順だけで手を動かす。そこから先へ行かない。


 ラルフは講習を受ける前のやり方で、ゼーベル粥を作った。手つきは丁寧だ。火加減も悪くない。けれど食べる人を思い浮かべない。杓子が鍋肌をこする音だけが残り、彼は途中で何度も唇を噛んだ。


「気持ち悪い」


「味が?」


「手が。いつもなら、この辺で誰に出すか勝手に考えるんです。それを止めるのが、すごく変です」


「それを気持ち悪いと思うなら、戻れませんね」


「戻りたくないです」


 ベルントは干し肉を焼いた。父親の炭焼き小屋で覚えたという手順で、炭火から指三本ぶん離して串を置く。香りを誰かに届けようとはしない。焼き上がった肉は食べられる。焦げてもいない。皿に置いたのに、誰もすぐ手を伸ばさなかった。


 エマは少量のパン生地をこねたが、爪の間に生地が入り込んだところで手を止めた。


「無理です」


「エマさん」


「この酵母を空っぽにするのは無理。わたしの手が、勝手に母や祖母のことを思い出してしまう」


「それでいいです。エマさんの酵母は送らない」


 わたしは米を炊いた。


 水はいつもの量。火も、蒸らしも、間違えない。誰の名も頭に置かない。鍋をただの物として扱う。炊き上がった米は白かった。艶もある。


 でも、息をしていない。


 ラルフが鍋を見て、小さく言った。


「悲しい米だ」


「光がないから?」


「はい。前なら普通の米だったはずなのに」


「わたしたちの目が、変わったんです」


 悪くはない。喉も壊さない。

 なのに、箸を持つ手が迷う。

 それで十分だった。ダリアがどう受け取るのか、知りたい。



 * * *



 籠に詰める前に、手紙を書いた。


 余計な言葉を入れると、料理の邪魔になる。グスタフが横で腕を組み、わたしの文を読むたび「長い」と言った。三度書き直して、残ったのは短い文だけだった。


『ダリアへ。

 いただいた食材は、こちらの厨房で火を入れ直し、皆でいただきました。

 返礼として、こちらの食材を送ります。

 あなたの厨房で、これをどう料理されるか、拝見します。

 リーゼ・ヴァイスフェルト』


「挑発が足りん」


 グスタフが言った。


「手紙ではしません」


「料理で挑発する気はあるくせに」


「それはあります」


「ふん。ならいい」


 籠には、空っぽの米、ゼーベル粥、炭火で焼いた干し肉を入れた。毒見役は顔をしかめただけで、腹は壊さなかった。それで足りる。普段の厨房なら、出し直しの皿ばかりだ。


 運ぶ者の名が出た途端、椅子の脚が鳴った。


「俺が行く」


 ヴィクトルが白旗の杖を手にした。


「危険すぎます」


「危険だから俺が行く。俺は組織の裏切り者だ。奴らは俺を殺したい。だから、俺が白旗を持って歩けば、向こうの緊張が一段上がる」


「上げてどうする」


 殿下の声が低い。


「対話の温度を見る。ぬるければ無視される。熱くしすぎれば矢が飛ぶ。どこで燃え出すか、俺の首で測ってくる」


「ふざけるな」


 殿下がそう言った瞬間、地図の端を押さえていた副官の指が滑り、石の重しが落ちた。


 ヴィクトルの口元の笑みが消えた。


「お前はリーゼの仲間だ。リーゼの仲間を、使い捨ての測り棒にする気はない」


 ヴィクトルは杖を持つ手を下げた。


 革手袋が杖をきしませた後、彼は声を落とした。


「では、使い捨てではなく、戻る前提で行きます」


「戻れ」


「はい」


 皮肉で逃げない返事だった。



 * * *



 ヴィクトルは馬を断った。


 白旗を高く掲げ、籠を肩にかける。雪解けの道は泥が深い。馬で近づけば、急襲に見える。徒歩なら、向こうの弓兵が一呼吸、二呼吸迷う。その迷いを買うのだと、ヴィクトルは言った。


 陣営の外縁まで、わたしたちは見送った。


 ローザがエマの腕の中から、じっとヴィクトルを見ている。彼女は何も言わず、小さな手を振った。


 ヴィクトルは振り返らなかった。


 けれど歩きながら、片手を肩の高さまで上げた。


 白旗が春の湿った風に揺れる。


 その背中が北の丘の影に入るまで、誰も配膳場へ戻らなかった。


 丘の向こうで白旗が消えた。

 わたしは配膳場へ戻り、空になった米袋の口を縛った。返事を待つ間にも、昼の粥は焦げる。


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