【151】戻ってきた籠
籠が戻ったのは、鍋の底で昼粥が焦げつきはじめた頃だった。
泥道の向こうで、白い布が揺れた。
白旗だ、と兵の誰かが低く言う。布の下からヴィクトルの杖が見え、その半歩後ろで、ゼルギウスの軍服を着た若い男が泥を踏みそこねた。
捕虜の歩き方ではなかった。
手は縛られていない。武器も持っていない。ただ、肩を内へ畳みすぎている。足を置くたび靴先が迷い、何をしていいか分からない子供みたいに見えた。
「ヴィクトルさん」
わたしが配膳台から走り出すと、ヴィクトルは杖を横に出した。
「そこまでだ。三歩でいい。こいつが危険という意味ではない。見ている兵がまだ納得していない」
言われて、周囲を見る。
雪解けの道の両側で、兵士たちの手が止まっていた。敵国の軍服を着た若い男が厨房へ近づいてくる。鍋の匂いまで、いったん薄くなる。ラルフは包丁を伏せ、ベルントは配膳用の柄杓を握りしめて立っていた。
ヴィクトルは籠を泥につけないよう、乾いた板の上へ下ろした。
「ダリアからの返事だ。それから、預かりものがひとり」
「預かりもの」
「名前はレオン。ダリアの厨房にいた料理見習いだ」
レオンと呼ばれた青年は、わたしを見ると深く頭を下げた。言葉はない。顔を上げた時、目の色が北の空みたいに薄い青だと分かった。
怖がっている。
けれど、逃げる足ではない。靴先は火床のある方へ、ぎこちなく向いたままだ。
わたしは籠の蓋を開けた。
中身は、わたしたちが送った食材ではなかった。
米は布に包んでひとつかみ。肉は薄く削られ、葉で巻かれている。小瓶には琥珀色の液体が半分ほど入っていた。瓶の肩で光が揺れ、油なのか酒なのか、蓋を開けるまで分からない。
紙が一枚、底に貼りついていた。
ダリアの字は整っていた。冷たいというより、余白まできちんと火を通したような字だった。
『リーゼ・ヴァイスフェルトへ。
いただいた食材で、こちらの厨房で料理を作りました。
あなたの食材は、わたしの手では上書きできませんでした。
光を宿していないものは、最後までただの食材のままでした。
代わりに、こちらの食材を送ります。
今度のものは、わたしが心を込めて作ったものです。
あなたの厨房で、これをどうされるか、楽しみにしています。
ダリア』
楽しみにしています。
紙の上では冷えているのに、喉の奥に小骨みたいに残った。挑発なら軽い。挨拶なら遠い。救いを求める声にしては、字がまっすぐすぎた。
「ヴィクトルさん。ダリアは本当に、わたしの食材を料理したんですか」
「見た。俺の目の前でな。若い料理人が三人ついていた。手順は正確で、火加減も悪くない。だが、光は宿らなかった」
「どうして」
「食材が、見分けた」
ヴィクトルは短く言った。
「奴の指の癖は、お前に似ている。包丁を引く角度までな。だが、似せただけで腹は膨れん。食材も同じだ」
わたしは籠の中の米を指先でつまんだ。
光は宿っている。
深い。けれど、わたしたちの厨房で生まれる金色とは違う。縁に灰色が噛んでいる。毒の色ではない。焦げでもない。
焦げたところを削りきれないまま、それでも皿に出した料理の色だ。腹を満たすことは、あきらめていない。
「悲しみを知っている料理ですね」
「そうだ」
ヴィクトルは、レオンの方へ視線を向けた。
「ダリアは、こいつをこちらへ預けると言った。『リーゼ・ヴァイスフェルトの厨房で、しばらく働かせてやってくれ』と」
「なぜ」
「逃がした、と俺は見る」
ヴィクトルはまだ訳していない。レオンの肩がぴくりと上がり、視線が自分の靴先へ落ちた。
「ダリアは近いうちに、自分が厨房から出られなくなると考えている。身体か、立場か。どちらにせよ、見習い一人の首まで賭ける気はないのだろう」
わたしはレオンを見た。
ベルントと同じくらいの若さ。手は荒れている。爪の脇に火床の煤が残っている。兵士の手ではない。厨房の手だ。
「レオンさん」
彼は名前を呼ばれて、まっすぐこちらを向いた。
「ここでは、火を絶やさない人がいちばん偉いです」
ヴィクトルが訳すと、レオンは火床へ視線を落とした。煤のついた親指で胸を押さえ、短く何かを返す。
「『火を燃やします』だな」
ヴィクトルが訳した。
「……『リーゼさんの厨房の火を、絶やさないように』と」
* * *
殿下が奥厨房へ来た時、レオンは火床の前で薪の組み方を確かめていた。細枝を一本抜き、息の通り道を指でなぞっている。
「敵の料理人を入れたそうだな」
「はい」
殿下の声は静かだった。けれど、天幕の外では護衛の靴がいつもより二人分多く砂を鳴らしている。静かなだけで、刃は引いていない。
「危険性は」
「刃物はまだ渡していません。火床だけです。ヴィクトルさんが保証しています。わたしは、彼の手を見ました」
「手か」
「料理を知っている手です。兵士の握り方じゃありません」
殿下はレオンの前に立った。
レオンは立ち上がろうとしたが、殿下が片手で留めた。座ったままでいい、という仕草だった。ヴィクトルがその意味を伝える前に、レオンは察して腰を下ろした。
殿下は火床を見た。
レオンが組んだ薪は、崩れていない。細い枝は火口の近く、太い薪はまだ奥へ押し込みすぎていない。灰の逃げ場も残してある。火を急がせず、眠らせもしない組み方。
「料理を知っている手だな」
「殿下も分かりますか」
「薪を扱う手は、料理人の最初の手だ」
ヴィクトルが訳すと、レオンは初めて頬を動かした。笑ったのではない。笑い損ねたような、息だけの反応だった。
「身柄は預かる。ただし厨房から勝手に出るな。兵に近づく時はベルントかラルフを通せ。水汲みも同じだ。刃物は半日待つ。火の番は任せる」
ヴィクトルの通訳を聞き終えると、レオンは膝の上で両手を握った。節が白くなる。
それから、床板に額がつくほど頭を下げた。
* * *
火床の薪を細い枝に替え、皆が寝袋にもぐったあと、レオンは奥厨房の隅で眠った。
与えた毛布は一枚だけだった。足りるはずがない。わたしが二枚目を探して木箱に手を入れる前に、ローザが動いていた。
自分の毛布を半分引きずり、レオンの足元へ置いている。
子供の毛布は小さい。レオンの膝から先を覆うだけで、足首までは届かなかった。
それでも、レオンは眠ったまま毛布の端を手で探し、指先でつかんだ。
足首は冷えたままだ。レオンは端をつかんだ指を離さず、胸の方へ引き寄せた。ローザは何も言わず、空いた半分に丸まった。
外で見張りの靴底が鳴るたび、レオンの指だけが毛布を握り直した。




