【148】贈り物
白い旗は二本あった。
停戦交渉の白。ゼルギウスの紋章入りの白。雪解け水でぬかるんだ道を、馬車が車輪を沈ませながら近づいてくる。幅広の車輪が泥を押し割り、黒く塗られた車体に跳ねた水が筋を作った。
馬ではないものが馬車を引いていた。
犬に似ている。けれど犬より大きく、肩の骨が不自然に盛り上がっていた。黒い長毛の下で筋肉が波打ち、目が赤く濁っている。シュネーフントに似せて作られた、別のもの。
ネルが肩の上で低く喉を鳴らした。
「ダークエッセンスで補強された獣だ。長くは生きん。だが雪と泥には強い」
「作ったんですか」
「料理を兵器にする連中が、獣を荷車にするくらいで止まると思うか」
その言い方で、息が一拍ひっかかった。
兵士たちは槍を構えたまま、切っ先だけを下げていた。白旗がある。先に刃を向ければ、こちらの負けだ。殿下もフリードリヒ将軍も、公開厨房の前まで出てきている。フィンさんはわたしの半歩後ろで、いつでも腕を引ける距離。ヴィクトルはさらに前へ出て、馬車の揺れと御者台を見ていた。
馬車は陣営の外縁で止まった。
扉が開く。
降りてきたのは、女がひとりだった。
黒い髪を後ろへ長く流し、深い紺色の上着を着ている。軍服ではない。けれど厨房に立つ人間の服だとすぐに分かった。袖のゆとり、腰の締め方、肩の動かし方。前掛けはないのに、火床の前で邪魔にならない線をしていた。
ダリア。
誰かが名を口にしたのか、わたしの中で響いただけなのか分からなかった。
彼女は遠くからこちらを見た。
間には、泥と雪解け水と、槍を握る手の白さがあった。それでも視線は逸れない。敵意だけではない。値踏みでもない。煮立つ前の鍋を覗く、料理人の目だった。
わたしは手をエプロンの前でそろえた。
鍋の前に立つ時と同じ姿勢で。
* * *
ダリアは馬車の後ろから籠を下ろした。
大きすぎない。女ひとりが両手で抱えられる程度の籠だ。彼女はそれを雪解け水の流れより手前に置き、紋章のない白旗を籠の上に寝かせた。
それだけだった。
名乗りも、口上もない。
馬車へ戻りかけた彼女は、一度だけ足を止めた。振り返る。口元が動いた。笑みと呼ぶには温度が足りない。けれど、こちらへ投げた合図だと分かった。
あなたはどう料理するの。
そう聞こえた気がした。
馬車は北へ向きを変えた。黒い獣の足が泥を蹴り、車輪が深く跡を残す。丘の向こうへ消えるまで、陣営の誰も動かなかった。
籠は泥の手前に残った。水の音だけが、妙に大きく聞こえた。
「近づくな」
ヴィクトルが兵士を止める。
「棒を通して運べ。中を見るな。匂いも嗅ぐな。奥厨房へ」
兵士二人が長い棒を籠の取っ手へ通し、肘を固めて持ち上げた。軽くはない。重すぎもしない。何かが中で、こつん、と鳴った。
奥厨房では、すでに台を空けてあった。
台の周りに、わたしとグスタフ、ラルフ、ベルント、エマが寄った。フィンさんは背後、ヴィクトルは横。殿下は台から一歩ぶん離れている。軍医のシュタウブは解毒道具を抱えたまま入口を塞ぎ、フリードリヒ将軍は誰の手元も見える場所に立った。
「開けます」
わたしは蓋に手をかけた。
木の編み目は冷たかった。
* * *
籠の中身は、やけに行儀がよかった。
白い布に包まれた塊がひとつ。油紙の端から肉の赤茶けた筋が覗く。麻袋は穀物らしく、底の方で粒が擦れた。細いガラス瓶は布で首を巻かれている。その隙間に、紙が一枚。
わたしが紙へ手を伸ばす前に、ヴィクトルが指で止めた。
「待て。紙からだ。触るな、端を」
布越しに取り出して渡す。彼は表を読み、裏を火にかざし、隠し文字を待った。何も浮かばない。
『帝国軍へ。
冬の労いに、ささやかな贈り物を。
春は、もうすぐ。
ともに温かい食卓を囲める日を、楽しみにしている。
ダリア』
短い。
短すぎて、逃げ場がない。
「敵将が名を明かして贈るか」
フリードリヒ将軍が言った。
「料理人として名乗ったんだと思います」
言ってから、指に紙の硬さが残った。
戦場では敵将。厨房では料理人。ダリアは、その両方を同じ籠に詰めてきた。
白い包みを開ける。
中身はチーズだった。硬い。表面に白い結晶が浮き、刃を入れる前から熟成した乳の匂いが立つ。ユーリアの草原のチーズに似た系統だが、もっと湿った石室の匂いが混じっていた。
ネルが耳を立てた。
「北方修道院のチーズだな。草原のものより寝かせが長い。乳を急がせず、時間に押し込める作り方だ」
ヴィクトルが顎を引いた。
「ゼルギウス北方の修道院系列だ。高価なものではないが、土地の時間が出る」
わたしは指先で表面を押した。
冷たい。
ただ冷たいだけだった。
ロレンツォさんの魚醤やエマの酵母なら、奥で何かが返事をする。これは返ってこない。悪意の影もない。影すらない。
無。
食材であるのに、料理としてまだ誰の方も向いていない。
「エッセンスが抜かれています」
グスタフの手が包丁の柄へ滑り、シュタウブが解毒道具の留め金を外した。エマは麻袋から半歩退く。
「毒ではないのか」
「毒ではありません。悪意も、今のところは。……でも、空っぽです。製造か保管の途中で、食べる人へ伸びるところだけを抜いてある」
「そんなことができるのか」
ラルフの声は、怒りに近かった。
「できる、と見せに来たんだと思う」
わたしはチーズを布の上へ戻した。
「あなたたちのエッセンスは、こちらの製法ではなかったことにできる。……では、この空っぽの食材をどうしますか」
言い切る前に、エマが麻袋を睨んだ。
「それ、穀物も同じなら粉にしても膨らみません。配給に混ぜたら、鍋一つぶん無駄になります」
「瓶も残ってる」
ベルントの声が低い。
「油か、酢か。どっちでも火に乗せる前に見ないと危ねえ」
殿下がわたしを見た。
「挑発か」
「挑発です。でも、それだけではありません」
籠の中の肉、穀物、瓶が、まだ手をつけられずに残っている。
ダリアの最初の皿は、テーブルの上にある。
わたしはチーズを布で包み直し、端をきつく結んだ。




