【147】上書き
上書きの訓練は、鍋より先に手が嫌がった。
毒がない。だから、毒を消す練習はできない。なら料理を悪い方へ傾けて、戻すしかない。言えば一行で済む。けれど、わざと人に食べさせたくないものを作る手つきは、料理人の骨に合わなかった。
グスタフは、包丁を布でぬぐいながら釘を刺した。
「お前、下手な料理を作るのと、悪い料理を作るのは違うぞ」
「分かっています」
「分かっていない顔だ。下手な料理は救える。悪い料理は、作った人間の手に癖が残る」
「それでも必要です」
「なら、作った後に手を洗え。水じゃないぞ。まともな料理でだ」
その忠告は、後で効いた。
小鍋に米を入れる。水も火も、いつも通り。鍋へ差し出すものだけを変える。
ヘルマンの戻ってこなかった椀。
そこへ、殿下の肩で黒ずんだ傷が割り込む。焼けた研究所の扉。ローザがもし母親の腕の中で――。
考えた瞬間、指先が冷えた。
蓋の下へ押し込む。
炊き上がった米は白い。けれど湯気が重い。鍋肌に、薄い灰色の膜が脂のように貼りついている。腐ってもいない。焦げてもいない。それなのに、喉が先に拒んだ。
ラルフがのぞき込み、鼻の前を袖で押さえた。
「……これ、米ですか」
「米」
「近づきたくないです。食べたら、何か思い出しそうな匂いがする。嫌な方の」
「食べなくていい」
「分かってます。分かってますけど、鼻が覚えた」
わたしは木べらを握り直した。
「これを戻します」
「どうやって」
「消すんじゃなくて――包む」
言った途端、自分の中身が空ぶった。包むとは、どこへ。何で。
火を弱める。強い火で押せば、灰は焦げに変わるだけだ。匙を入れ、底から返す。米粒がひとつ潰れて、舌打ちしそうになる。灰色の膜は粒に絡み、匙の腹へ薄く伸びた。消えない。
ローザが、足の届く椅子に座って爪先を揺らしていた。エマの酵母が、ぷつ、と息をした。ベルントの「帰って店を作る」は、鍋の湯気より熱かった。
ロレンツォさんの魚醤を落とした椀で、将軍が祖母の名を飲み込んだことも。
それだけでは、鍋肌の灰はしがみついたままだった。
木べらを止める。
ヘルマンの椀は戻らない。殿下の傷も、焼けた扉も、消えない。だから、消すのをやめた。
椀を洗う水音があった。包帯を押さえた指に血がにじんだ。原稿を金庫へ分ける時、紙の角で誰かが指を切ったかもしれない。
鍋肌に貼りついていた膜が、匙の通ったあとで切れた。
米の色は白のままなのに、湯気に豆を煮た時みたいな甘さが戻る。灰を追い払うのではなく、熱の内側へ押し込んで、食べ物の匂いに混ぜる。喉のざらつきが、飲み込めるところまで下がった。
ラルフが匙を伸ばした。
「ひと匙」
「やめて」
「味見なしじゃ手伝えません。吐いたら水ください」
彼は水桶の位置を目で確かめ、一口食べた。眉間を寄せたまま噛む。飲み込むまで時間がかかる。
「うまい、です。けど、普通の粥じゃない」
「どこが」
「……悲しみを知ってる粥。たぶん」
「粥が?」
「俺だって今そう思いましたよ」
わたしは木べらを鍋の縁に置いた。柄に米粒が一本、貼りついている。
消えてはいない。
でも、食べられる。
* * *
灰の匂いが指から抜けきらないうちに、奥厨房の一角が小さな訓練場になった。
大鍋は使わせてもらえない。片手で持てる小鍋を並べ、わざとひと息分だけ灰を入れた粥を作る。わたしが調子に乗ると手が濁るので、一度に三鍋。四つ目へ手を伸ばしたところで、グスタフの布巾が飛んだ。
「悪い料理の量を競うな。馬鹿者」
「今のは数を――」
「数えるな。食材が泣く」
見張りはヴィクトルに回された。
彼は自分ではエッセンスを出せないと言う。長くダークエッセンスのそばにいた手だから、光の呼び方が分からない。けれど残り滓は見える。鍋の縁、湯気の重さ、匙についた薄い汚れ。そこだけは外さなかった。
「ベルント、縁。まだいる」
「え、どこです」
「焦って混ぜるな。米が潰れる」
「はい」
「ラルフ、今のは戻したんじゃない。香辛料で塞いだだけだ」
「ばれます?」
「鼻が痛い」
「エマ、そのまま。酵母に触る時の手だ」
エマは小鍋の前で、粉ではなく米を相手にしていた。最初は指先が迷っていたが、鍋の横に手のひらを置き、湯気の当たり方を確かめた途端、肩の力が抜けた。
「灰色、機嫌を悪くしたパン種に似ています」
「機嫌が悪い時はどうするんですか」
「叱りません。水を足したくなるけど、足しすぎると終わりです。粉も、急に入れない。……人間の焦り、種にばれます」
ベルントが鍋の火を見て、黙ってひとつ穴を狭めた。
「俺、焦ってました」
「見れば分かる」
グスタフが容赦なく言う。
「だが焦る手も、戦場の厨房には要る。問題は、焦った後に戻る道を覚えているかだ」
次の鍋で、ベルントは火を半目盛り落とした。額に汗が出ても、手首は走らない。灰は一度濃くなり、そこで粘った。焦げ臭さが出る寸前、米粒の間へ湯気が戻った。
わたしの戻し方とは違う。ラルフとも、エマとも違う。荒いが、腹に入れられる。
四人分の匙を並べると、どれも形が揃わなかった。
グスタフはそれを見て、何も言わなかった。何も言わない時は、たいてい合格だ。
* * *
灰色の鍋を下げると、グスタフの言った通り、まともな料理で手を洗った。
エマのパンを薄く切る。ロレンツォさんの魚醤は一滴だけ、豆の汁へ落とす。一滴を二滴にすると兵士の顔が変わるので、そこで止める。灰を扱った手で、今度は最初から腹を温める鍋を仕込む。似た手順なのに、肘の使い方まで違った。
配膳口へ出すと、兵士たちはいつもの顔で器を受け取った。
「今日、豆か」
「魚の匂いがするぞ」
「一滴です」
「一滴でこれか。飯増えるか?」
「増えません」
「ちぇ」
「舌打ちした人は、次の桶を運んでください」
列の後ろで誰かが黙った。
いつも通りだ。
昼の片づけで濡れ布巾を絞っていると、奥厨房の入口にフィンさんの影が落ちた。
「リーゼさん。見張り台から伝令です」
布巾を桶へ投げ、外へ出る。
南からの風が強い。雪解け水の細い流れをまたぐ時、靴底が滑った。北の道から白い旗が二本、揺れながら近づいていた。
贈り物が来た。




