【146】溶けかけた雪
氷柱が落ちた。
奥厨房の入口の上にぶら下がっていた長い氷が、誰も触れていないのに根元から折れ、踏み固められた道の脇へ突き刺さった。中に水を含んだ、鈍い音だった。
ヤンが真っ先に駆け寄る。
「リーゼさん、これ。水甕、入れていい?」
「土のところは削って。あと手袋」
「手袋、濡れる」
「なら急いで」
ヤンは氷柱を抱えて走った。途中で冷たさに顔をしかめ、肘で抱え直して、それでも落とさない。水は冬の間、ずっと重い仕事だった。雪を溶かせば量は取れるが、灰や泥が混じる。澄んだ氷は、鍋に入れる前からありがたい食材のように扱われる。
雪原は白くなくなっていた。
遠目にはまだ雪だ。けれど近づけば、表面に灰と土が混じり、踏まれた場所は黒く濡れている。長靴の底が、昨日より沈む。春は花より先に、汚れた雪の色で来る。ベルクハイムでハンスさんがそう教えてくれた時は、寂しい知識だと思った。
今は違う。
汚れた雪は、下で土が生きている証だった。
夜半、雪の下で鳴っていた小さな音が、朝には水音になって陣営のあちこちから聞こえていた。
* * *
冬の間、少なかった音が戻ってきた。
北の丘では武具を打ち直す槌。馬房では濡れた鞍革を引き絞る音。軍医の天幕の裏では、松葉杖が凍った地面を叩き、たまに滑って悪態が飛ぶ。兵士たちの声も日ごとに大きくなる。寒さで縮んでいた喉が、雪解けと一緒に開いていく。
厨房も同じだった。
奥厨房ではエマがパン種を抱え込み、ベルントが灰の道を踏み広げ、ラルフが公開厨房の鍋底を削っていた。レオンの使っていた踏み台は壁際で空いている。北からの籠も、まだ姿を見せない。それでも、春が近づくほど、わたしたちの手は忙しくなった。
手を止めると、焦げの匂いより先に余計なことを考える。
朝の仕込みに入ろうとした時、ヴィクトルが奥厨房へ顔を出した。冬の間に頬の肉はいくらか戻ったが、目の奥の暗さは薄くならない。彼は火床に寄る前に、入口のフィンさんへ短く合図をした。
「奴ら、動き始めた」
「ダリアが」
「本人ではない。その前だ。先鋒の調理班が組まれた」
木べらを握る手に力が入った。ラルフがすぐに気づき、わたしの手元へ視線を落とす。わたしは木べらを置いた。
「調理班、ということは」
「ダークエッセンスを食卓に載せて運ぶ部隊だ。戦闘部隊より遅く、補給部隊より前に動く。兵士を腹から崩すための隊だ」
「何が来ますか」
「贈り物」
その単語は、料理人にとって本来うれしいもののはずだった。けれどヴィクトルの声では、刃物を布で包んだもののように聞こえた。
「停戦交渉、慰問、冬の労い――名札ならいくらでも貼れる。受け取らなければこちらが無礼になる。受け取れば食材が入ってくる」
ラルフが低く言った。
「毒か」
「単純な毒なら、フィン殿と軍医が見抜く。問題は、毒と呼べないものだ。食べた直後には倒れない。十日、二十日たってから判断が鈍る。傷の塞がりが悪い。眠っても手足が重い。その先で希望を失う」
「希望は、食べ物で失わせられるものですか」
置いた木べらの先から、汁が一滴落ちた。
「食べ物だから、できる」
ヴィクトルは火を見た。
「人は、食卓に肩を預ける。皿の上まで疑い始めたら、眠る場所がなくなる。奴らは、そこを刺す」
ロレンツォさんの魚醤、ユーリアのチーズ、ハンスさんの燻製。シャルロッテの薬膳ハーブも、エマが今朝つついていた酵母も、腹に入った後で人を立たせるものだった。
同じ鍋を、眠っても重さが残る方へ使う人間がいる。
火床の薪がはぜた。雪解けの水音に、鍋底を擦るような別の音が混じった気がした。
* * *
まかないの椀に湯気が残っているうちに、呼び出しが来た。殿下の天幕で会議が開かれた。
殿下の隣にフリードリヒ将軍。フィンさんは地図台の影、ヴィクトルは火鉢のない側に立った。わたしの前には、敵の補給線とこちらの炊き出し動線が並んでいる。料理の話が、軍の地図の真ん中にある。誰も、それを奇妙だとは言わない。
「贈り物が来た時の方針を決める」
殿下が言った。
「受け取らない選択肢はない」
フリードリヒ将軍がすぐに返す。
「停戦交渉の名目を拒めば、こちらが和平の芽を潰したと宣伝される。受け取って捨てても同じだ。捨てたと知られれば、向こうはそれを使う」
「では、受け取って、食べないで保管する」
「長く保管すれば、食材そのものが変質します。敵がそれを想定しているなら、保管庫が汚染源になるかもしれない」
わたしの声に、将軍が目だけで続きを促した。
「火を入れ直します。こちらの厨房で、こちらの手順で、別の料理にする」
ヴィクトルが補った。
「上書きだ。ダークエッセンスを、リーゼさんのエッセンスで包み直す」
「できる保証は」
「ありません」
わたしは答えた。
殿下の指が、地図の端で止まった。わたしはそこから目を逸らさなかった。
「ただ、練習はできます。実物の毒は使えなくても、焦げ、渋み、冷えた油、戻しすぎた乾物。食べたくなくなる状態なら作れます。そこから戻す訓練なら」
フィンさんが手袋の縫い目を指で押さえた。
「味見の順番も決めておくべきです」
「フィン」
殿下の声が硬くなる。
「わたくしが最初に見ます。毒見は、わたくしの職務です」
「お前を犠牲にする気はない」
「犠牲ではなく、手順です。手順が決まっていない厨房は、人を傷つけます」
フィンさんの口角は上がったままだった。けれど指は、手袋の縫い目を離さない。奥厨房の入口で見せる、あの硬さだ。
殿下の手が地図台に置かれ、親指が補給線の上で止まった。
「量は」
殿下がフィンさんへ目を向ける。
「米粒ほどで。舌と喉を見ます」
「異常があれば吐け。遠慮は要らない。リーゼはそこから上書きだ。軍医には解毒と、吐かせる桶、湯。リーゼ、お前が一人で先に食べることは許可しない」
「はい」
「返事が早いな」
「言い返しても、殿下が許可しない顔なので」
フリードリヒ将軍が、鼻から短く息を抜いた。
殿下は地図の端を指で叩いた。
「贈り物が来るまでに、上書きの訓練を始めろ。厨房全体でだ。お前ひとりの手に頼る構造は、ここで切る」
会議が終わっても、わたしは地図の上に引かれた敵の補給線から目を離せなかった。
線の先は、奥厨房の扉の手前で止まっている。殿下が地図を畳むと、そこだけ折り目が深くついた。
外で雪解け水が細く流れ、天幕の裾から泥がしみ込んでくる。フィンさんが布を差し込むより早く、茶色い筋が床板を越えた。




