表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/174

【145】雪の下の根

 ヤンの灰袋が、白い泥に一本、黒い線を引いた。


 雪は降り止んでいる。けれど消えたわけではない。陣営の道は灰を噛んだ白い泥になり、踏み固めた筋だけが低く沈む。天幕の陰には厚い雪が残り、薪置き場の下では氷が青く光った。さらに灰を撒こうとして、ヤンは袋の口を縛り直す。無駄にすれば、昼の配膳口で誰かが滑る。


 前線の動きは鈍い。


 時折、偵察隊同士がぶつかる。矢傷の兵が戻り、捻挫した足を抱えたまま水桶の横へ座り込む。北の丘で短く金属が鳴って、すぐ止む。そこから先へは誰も踏み込まない。


 冬の戦争は、音を飲む。


 そのせいで小さな音ばかり残った。鍋底をこする木べら。氷を割る斧。ヤンが袋を引きずって、途中でくしゃみをする音。エマがパン生地を折り返す時の、手のひらが粉を押す音。


 わたしの厨房は、その静けさの真ん中で火を保ち続けた。


 火は、勝手には続かない。


 薪を割る腕、灰を掻く手、鍋を洗う腰。朝の水桶は二つで足りず、三つ目をフィンさんが入口の脇に置く。そういう繰り返しが切れた瞬間、粥も兵も止まる。



 * * *



 火床の炭が二度目に沈んだ頃、ヴィクトルが奥厨房へ来た。


 雪のついた手袋を外で叩き、入る前にフィンさんへ片手を上げる。フィンさんは椅子から腰を浮かせず、同じ笑顔で通した。


「ダリアが、おかしい」


 火床の前に座ったヴィクトルは、両手を火へかざした。指先が赤くなるまで黙っていたので、ベルントが薪をくべる手を止めた。


「動いたんですか」


「逆だ。動かない」


 彼は外套の内側から小さな紙片を取り出した。端が湿気で波打っている。


「半月前から、奴の部隊はゼルギウス側の中央陣営に下がったきりだ。一兵も前線へ出していない。補給線の整備にも使っていない。完全に止めている」


「冬だから温存している、というだけでは」


「温存なら、荷運びか雪掻きに回す。あいつは料理人だ。手を止める時は、このあと何を出すか決めている時だ」


 ラルフの木杓子が鍋の縁で鳴った。誰も笑わない。


 ヴィクトルは紙片を開いた。


 短い一行。


『春一番に、食卓を仕掛ける』


 ベルントが薪を落としかけ、火の粉が跳ねた。グスタフが袖口で叩き消す。


「春一番」


「この土地では、雪解けの前に南から強い風が入る。ふた月。長く見ても三月だ。風が早ければ、もっと短い」


「食卓を仕掛ける、というのは」


「毒かもしれん。贈り物の顔をするかもしれんし、停戦の卓に紛れることもある。形はまだ読めない。だが向こうは、食卓を戦場にする気だ」


 わたしは黒い樽の置かれた隅を見た。


 ロレンツォさんの魚醤の匂い。エマの酵母の酸っぱさ。吊るされた燻製。シャルロッテが乾かしている薬膳ハーブ。ローザが洗って戻した、小さな匙。


 ここにあるものには、器の向こうに食べる人の顔が残っている。


 ダリアは同じ食材と同じ火で、匙を持つ手から力を抜く。


 料理そのものより、それが怖かった。


「春までに、何を増やせますか。鍋ですか、人ですか」


 ヴィクトルは紙片を畳んだ。


「鍋なら補給隊に頼め。要るのは、お前の返事を待たずに火を落とせる手だ。奴より深い料理を出せる手を増やす」


「軍属料理人の講習は続けています。でも、鍋が変わると止まる人が多いです。塩を足すか待つか、そこでこちらを見る」


「それでは足りない。講習を受けた手は、まだお前の言葉をなぞっている。春に要るのは、自分の根から動ける手だ」


「根」


「避難民の中にいる」


 ヴィクトルの視線が、公開厨房の方へ向いた。


「エマさん」


「あの女は、三代続いた酵母を首に下げて逃げてきた。粉と釜を失っても、パン種だけは手放さなかった。そういう人間は、最初から知っている」


「何を」


「料理は手順だけではない、ということを」


 彼は紙片を火へ入れず、外套の内側へ戻した。まだ使う情報なのだろう。


「教える必要はない。気づかせろ」


 グスタフが弟子を作る時の言い方に似ていた。


 説明ではなく、手を動かす場所へ連れていく。



 * * *



 小麦粉を量る前に、エマを奥厨房へ呼んだ。


 彼女は柵の前で足を止めた。奥厨房が限られた者だけの場所だと、避難民の間にも伝わっている。フィンさんが入口の板を指す。


「靴の雪は、そこでお願いします」


「はい。落としてから入ります」


 エマは長靴の裏を板にこすりつけ、泥の筋まで布で拭いた。急がせても動かない手つきだった。


 火床の前には、ボウルに入れた小麦粉と、彼女の酵母を置いてある。灰色だった塊は数日で息を吹き返し、表面に爪の先ほどの気泡が開いていた。酸っぱさの角も取れている。


「エマさん。これ、今日から任せます。パンを焼いてください」


「わたしが、ですか」


「はい。エマさんの酵母ですから」


「でも、釜がありません。兵隊さんに出すなら、リーゼさんが焼いた方が」


「わたしが焼くと、知らない手で起こすことになります。たぶん、この子はエマさんの手を待っています」


 エマの眉が寄った。


 この子、と呼ばれたせいだろう。けれどすぐ手が伸びる。指先が表面に触れた。ためらいはなかった。ずっと同じ壺の中を覗いてきた人の触り方だった。


 淡い金色が、指の下で揺れた。


 エマは光のことを言わない。見えていない顔のまま、光が強くなる場所を正確に押す。塊が深く息をした。


「水は、これくらいですか」


 彼女は尋ねながら、自分で水差しを止めた。


「そうです」


「粉は、指三本分ずつ。いっぺんに入れると、機嫌が悪くなる」


「誰に教わりました?」


「母です。母は祖母に。祖母は、その前の人に。たぶん、名前も残っていません」


 エマの手が粉を折り込み始めた。


 押す。返す。回す。


 速くはない。けれど無駄がない。彼女はリーゼの講習を受けたわけではない。エッセンスの理屈も知らない。それでも、手のひらの重さを変えた瞬間、光が反応した。


「エマさん」


「はい」


「今の。そこが、エッセンスです」


 彼女の手が止まりかけた。生地が指に張りつく。


「わたしは、ただパンをこねているだけです」


「はい。ただパンをこねている。その中に、ちゃんと入っています」


「魔術ではなく?」


「魔術みたいに見えるかもしれません。でも、魔術だけではありません。食べる人へ向かう手です」


 エマは生地から手を離さなかった。


 火床の音。外でヤンが灰を撒く音。公開厨房から聞こえる兵士たちの声。


「夫は、これを食べていました」


 ぽつりと言った。


「村で。毎朝ではないけれど、粉がある日は。焼きすぎだと言いながら、端を必ず先に取る人でした」


 わたしは粉のついた布巾を差し出した。


 エマは受け取らず、生地をまた押した。


「この手に残っているなら、まだ、全部は焼けていないんですね」


「家は焼けました。でも、手までは焼けていません」


 答えると、彼女は初めてこちらを見た。


「なら、焼きます」



 * * *



 最初に焼けたパンは、形が揃わなかった。


 奥厨房の火床はパン焼き用ではない。釜もない。焼き石を熱し、鉄板をかぶせ、上から炭を置く。焦げそうになっては火を弱め、温度が逃げてはまた炭を足した。グスタフが横から口を出し、エマが聞く。聞いた上で、自分の手に合うように変える。


「そこまで押すと潰れる」


「うちの種は、強く押した方が戻ります」


「戻らなかったら」


「わたしが食べます」


「ふん。なら押せ」


 グスタフはそれ以上止めなかった。


 焼き上がったパンは小ぶりだった。表面は裂け、焦げたところもある。けれど割ると、中から酸味のある香りが立った。ロレンツォさんの魚醤とは違う、家の匂い。粉と水と時間だけで、ここまで深くなる匂い。


 夕食の配膳で、パンを薄く切って粥に添えた。


 兵士たちは何も言わず、一口を飲み込む前に二度、三度と顎を使った。粥の匙が遅れる。若い兵が焦げた端を指でつまんで隠しかけ、隣の兵に肘で止められた。


「保存は効きませんよ」


 そう言うと、若い兵は耳まで赤くして口へ放り込んだ。


 配膳台の脇で、エマがパン籠を持っていた。


 ローザが母親の前に立ち、自分の鼻を指でつまんで、また離した。


「いいにおい?」


 エマが聞くと、ローザは大きく首を縦に振った。言葉にする前に、母親へ抱きつく。


 エマは片手でパン籠を支えたまま、もう片方の手で娘の背を受け止めた。籠が傾き、ベルントが慌てて下から支える。


「残り、二十七切れです。明日の朝には足りません」


 ラルフが鍋をずらしながら言った。


「粥を濃くしますか。それとも大麦を混ぜますか」


「大麦。あと、蕪も細かくします」


 わたしが答えると、グスタフが焦げた鉄板を持ってきた。


「種を二つに分けろ。片方を失敗しても、片方は残る」


 エマがローザを抱いたまま、顔だけこちらへ向ける。


「明日も焼きます」


「お願いします。でも寝てください。手が死んだら、パンも死にます」


 フィンさんが入口から、外に三人、匂いで足を止めています、と告げた。追い払う声ではなかった。


 春までに増やすものを、数だけで数えると間違える。


 鍋の前で、自分の手の重さを変えられる人。焦げた匂いがした時、誰かの許可を待たず鉄板を下ろせる人。ラルフが帳面に書けない手が、ひとつずつ要る。


 黒い樽の横で、パン種が勝手に膨らんでいた。


 屋根の端から水が落ち、薪の上で跳ねた。


「濡れます」


 ヤンが慌てて薪を抱え、フィンさんが入口を半分閉めた。冬はまだ、台所の中まで入り込んでくる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ