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【144】黒い樽

 補給隊は、馬車ではなく橇で来た。


 先頭の馬の首で、鈴がひとつ揺れていた。音は雪に吸われ、近づくまで輪郭がない。橇を引いていたのは馬だけではない。毛の長い大型の犬が二頭、胸の革帯をきしませて雪を踏みしめている。


「シュネーフントだ」


 ベルントが思わず言った。


「知ってるの?」


「北の山の雪犬です。父が炭を運ぶ時に、借りたことがあるって言ってました」


 犬たちは白い息を噴き、尻尾に固まった雪を振り落とした。補給の隊長が橇から降りる。顔の半分は布で覆われていたが、目で分かった。


「バルツァーさん」


「リーゼさん。遅れて悪かった」


「着いてくれただけで十分です」


「途中で橋が埋まった。ふた回り迂回した。馬車は捨てて橇に積み替えた」


 声がかすれている。頬の布は端が凍り、手袋の縫い目から藁くずが出ていた。二日遅れの理由は、説明よりそちらに残っていた。


 荷を確認する時、フィンさんとヴィクトルも立ち会った。


 今の厨房では、届いたものを喜ぶだけでは足りない。フィンさんは封蝋、ヴィクトルは匂い、わたしは縄の結び目。ラルフが荷札と帳面を照らす。疑うためではない。食べさせる前に、疑う仕事が増えただけだ。


 米袋が三つ。塩は一袋だけ、湿気ていない。乾燥野菜、鶏骨の干物、薬膳ハーブの追加分。香辛料の包みは油紙の角が一度潰れていたので、フィンさんが長めに見た。予備の包丁もある。ソフィアさまが手配したらしい羊皮紙の束まで出てきた。


「この状況で紙を?」


 ラルフが首をかしげる。


「前線の記録用でしょうね」


 わたしは言いながら、グスタフの顔を見た。彼は知らないふりをしていたが、指先だけが羊皮紙の束へ寄っていた。


 荷の底、犬の毛が絡んだ敷き藁の下から、黒い小さな樽が出てきた。


 他の荷より丁寧に縄で固定されている。樽板は黒く、油を含んだような艶があった。側面に焼印。クラインヘルツ家の紋章ではない。


 見覚えのある印だった。


 東港で、ロレンツォさんの仕込み小屋の奥に置かれていた百年の樽。その側面に刻まれていたものと同じ系統の印。


 札が結ばれている。ソフィアさまの字だった。


『東港のロレンツォさんから軍への提供、一樽。

 あなたが前線で炊き出しをしていると聞き、本人が駅まで運んできました。

 使い切ってください。

 ただし、蓋を開ける前に封を確認すること。今のあなたなら、わたしが書かなくてもするでしょうが。』


 最後の一文がソフィアさまらしくて、息が鼻から抜けた。


「封」


 フィンさんが親指で示す。ヴィクトルが樽口へ顔を寄せ、ネルがわたしの肩から樽の縁へ身を乗り出した。


「ダークエッセンスは?」


「ない」


 ヴィクトルは短く答えた。


「封も切られていません。縄は港の結び方のままです」


 わたしは樽の蓋に指をかけ、爪の幅ほど持ち上げた。


 褐色の液面が現れる。


 塩と魚と長い時間の匂いが、冷たい空気の中へ立ち上がった。強い匂いなのに、荒くない。鼻の奥を刺す寸前で止まり、喉の奥へ沈む。表面には淡い金色の膜が揺れていた。


「百年の樽ではないね」


 ネルが鼻を鳴らした。


「たぶん、四十年ものくらい」


「エルヴィンの仕込みではない。だが、悪くない」


 ネルは鼻を近づけ直した。


「あの老人、最後の代まで続けたか」


「続けてます」


「ふん。なら、まだ港は死んでおらん」


 ラルフが樽を抱え直した。急に、黒い樽が重く見えた。


 東港の潮と、駅の泥と、迂回した二日分の雪が、縄にまで染みている気がした。



 * * *



 夕食の鍋を火にかけるころ、ロレンツォさんの魚醤を使うことにした。


 たくさんは入れられない。樽は貴重だ。しかも魚醤は強い。入れすぎれば、どんな粥も海に沈む。


 鶏骨の干物を水から煮出す。灰汁をすくうそばから白い泡が寄る。乾燥野菜を戻し、麦と米を合わせる。味見をすると、まだ平らだった。寒さで舌が鈍っている兵士には、平らな味は届きにくい。


「魚醤、入れます」


「鍋一つに?」


 ラルフが帳面から顔を上げる。


「匙の先を濡らすだけです。足りなければ薄い塩湯を足す」


「薄い塩湯はあと二桶」


「なら失敗できませんね」


 火を絞って、匙の先で魚醤を落とした。


 一滴。


 鍋の表面で褐色がほどけ、湯気の匂いが変わる。塩気だけではない。魚の旨みだけでもない。遠い台所で、火を止める直前に誰かが鍋肌へすべらせる一さじが、鍋全体へ広がった。


 グスタフが味を見た。


「足すな」


「はい」


「足したくなるが、足すな。今がいい」


 配膳台に椀が並ぶ。


 兵士たちは、最初は気づかなかった。寒い。腹が減っている。椀を受け取り、いつものようにすすり込む。


 けれど二口目で、何人かが止まった。


「これ、なんだ」


「魚か?」


「いや、魚っていうより……」


 誰かが椀を両手で包み込んだ。


「うちの母ちゃんの鍋に似てる」


 別の兵が首を振った。


「俺のところはこんな魚臭くない。でも、なんか、家だ」


「家って味あるか?」


「あるだろ。説明できないやつ」


 その言葉は列の後ろで一度詰まり、湯気と一緒に広がった。


 ロレンツォさんの魚醤を知る兵など、列にひとりいるかどうかだ。それでも椀を持つ手つきが変わった。急いで流し込むためではなく、冷める前に味を逃がさない持ち方だ。


 炭焼き小屋から来た兵もいれば、草原の天幕で育った者もいる。港町の訛り、貴族屋敷の作法が抜けない手。味はそれぞれ違う。違うのに、湯気の向こうで誰かが黙る。


「おかわりは薄めます」


 ベルントが釘を刺すと、前の兵が椀を胸に寄せた。


「今のままで」


「後ろの人の分がなくなります」


「……薄めてくれ」


 ラルフが水の桶を蹴り寄せ、ネルが「入れすぎるなよ」と肩の上で騒ぐ。列は崩れなかった。崩れないまま、背中の丸まりがいくらかほどけた。



 * * *



 配膳の列が途切れたところに、フリードリヒ将軍がいた。


 将軍はいつも兵の後で食べる。列が終わりかけた頃に現れ、誰にも順番を譲らせない。今日も同じだった。


 ベルントが椀を差し出すと、将軍は一度だけ香りを確かめた。珍しいことだった。


 火床の脇で、ひとりで食べる。


 背筋はまっすぐ。椀を持つ手も変わらない。けれど一口目のあと、将軍は椀を膝の上に置いたまま、薪が二本はぜるまで動かなかった。


 わたしは洗い桶を抱えて近づいた。


「将軍。塩、足りませんか」


「違う」


「濃すぎました?」


「それも違う」


 火に背を向けたまま、将軍は椀の中を見ていた。


「私の母の味ではない」


「はい」


「妻の味でもない」


「……はい」


「祖母の味だ」


「お祖母さまの」


「子供の頃に死んだ。私は記憶していない。だが母が言っていた。祖母の汁は、最後に何か分からないものを足す、と。私はそのたび腹を立てた。何か分からないものを食わせるな、と」


 将軍は残りを飲み干した。


「今でも正体は知らん」


「魚醤です」


「それは貴官の鍋の正体だ」


 将軍の声は、いつもの命令口調から外れていた。わたしは返事に迷って、洗い桶の縁を握り直した。


「私は料理に興味のない人間だ」


「はい」


「だが、貴官の料理は、興味のない場所にまで手を入れてくる」


 褒め言葉なのか苦情なのか、判断に迷う言い方だった。


 将軍は立ち上がり、空の椀をわたしに渡した。


「面白い」


 それだけ言って天幕へ戻っていく。


 椀の底は、丁寧に空になっていた。舐めたわけではない。けれど米粒ひとつ残っていない。


 ベルントが洗い場でその椀を受け取り、小さく笑った。


「機嫌、よかったです」


「あれで?」


「あれで」


 黒い樽は、奥厨房の冷えにくい隅へ移した。蓋に布をかけ、紐は赤いものに替える。ラルフが羊皮紙の端に『魚醤、夕食大鍋一つにつき匙半分以下』と書き、ベルントが横から覗き込んだ。


「半分でも多いです」


「じゃあ何て書く」


「匙の先。二回まで」


「三回やる人が出ます」


 グスタフが黙って羊皮紙を半分、自分の方へ引いた。


 樽を押し込むと、底に残った滴がひとつ、床板に落ちた。


「拭いて。犬が舐める」


「はいっ」


 シュネーフントの片方が、すでに鼻を近づけていた。


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