【143】手紙
「来た」
ラルフが奥厨房の幕をつかみ、雪まみれの肩を中へねじ込んだ。夜半だ。火は落としきらず、灰の下で赤く噛んでいる。鍋は空。けれど厨房の空気だけが、点呼前みたいに締まった。
「補給隊?」
「違う。伝令。騎馬二騎――替え馬、いる」
補給の馬車なら、もっと鈍く沈む音がする。今聞こえているのは、雪を蹴って走りきった馬の荒い息だった。
外へ出ると、雪明かりの下で二頭の馬が湯気を吹き、腹を震わせていた。鞍も人も白く凍っている。伝令はフリードリヒ将軍の天幕の前で片膝を落とし、書簡筒を差し出していた。
ヴィクトルが脇から受け取った。将軍の補佐という肩書きは、こういう夜に余計な門番を減らす。二言三言。こちらへ歩いてくる靴音が、雪の上でやけに乾いた。
「リーゼさん。……お前宛てだ」
「わたしに?」
「クラインヘルツ家の封蝋。ソフィア殿から」
封筒は厚くなかった。なのに手に乗せた途端、胸の骨へ沈んだ。蝋には見慣れた紋章。指が急ぎ、封を切る時に紙の端を裂いた。息を飲み、裂け目をそれ以上広げないよう押さえる。
中には二枚の手紙が入っていた。
上にあった紙はソフィアさまの字だった。いつもの几帳面な線が、ところどころ跳ねている。それでも言葉の順番は、彼女らしく整っていた。
『リーゼ。
短く書きます。
研究所が襲撃されました。
わたしは無事です。ヴェルナー教授、マルクス、アリアも無事です。
被害は入口の扉、地下室の窓二枚、保管棚一列。書類は端が燃えました。水をかぶった束のほうが多いです。
あなたの教科書の原稿は無事です。グスタフさんが最初から金庫を分けろと言い、教授が面倒くさがりながら従ったおかげです。ここを先に書かないと、あなたが鍋を焦がす。
犯人は保守派魔術師団の末端です。逮捕されています。背後関係はエレナ殿下が洗っています。
議会は揺れました。けれど今回の襲撃で、研究所閉鎖を訴えていた者たちは世論を失いました。閉鎖派から二名が離れました。議案は来週、否決される見込みです。
心配しないで、と書きたいです。
でも、あなたが心配することも分かっています。だから無事だと何度でも書きます。
無事です。
帰ってきたら、おにぎりを握ってください。
ソフィア』
もう一枚はアリアの字だった。
まだ子供の字だ。けれど以前より線が強い。払いの末尾に、グスタフの字に似た癖があった。
『リーゼさま。
研究所が燃えました。でも、わたしは大丈夫です。
デザート工房は皇宮の地下に移りました。火口は四つです。作業台は足りません。
毎日、デザートを作っています。今日は五百個。明日は砂糖が届けば、もっと作ります。
帰ってきた兵士さんが、わたしのデザートを食べて笑いました。
わたし、笑顔を作る人になりました。
リーゼさまが、わたしをそういう人にしてくれました。
前線は寒いですか。ちゃんと食べていますか。人の皿ばかり見ていませんか。
帰ってきてください。
わたしのデザートを、リーゼさまにも食べてほしいです。
アリアより』
アリアの紙をまた開いた。目が勝手にそこへ戻る。
五百個。
小さな手で、どれだけ型を洗い、布巾を絞り、砂糖を量ったのだろう。そのたびに、どれだけの兵士の顔を思い浮かべたのだろう。
ヴィクトルは離れて、手紙を覗かない位置に立っていた。指先で剣帯の金具を一度鳴らす。伝令から大筋は聞いている顔だった。
「ヴィクトルさん」
「ん」
「……みんな無事です」
「なら、そこだけ握ってろ」
「アリアが、五百個」
「五百?」
「作ってます」
「あの子は、前に会った時より早く大人になってるな」
「早すぎます」
「戦争中は、早すぎることばかりだ。止められたら苦労しない」
手紙を畳んで胸元にしまった。
紙の角が衣服越しに当たる。軽いはずなのに、そこだけ温度が違った。
* * *
奥厨房へ戻ると、グスタフが火床の前に座っていた。
寝ていたはずの男が、包丁を研いでいる。研ぎ石の上を刃が走る音は、夜にはやけに大きかった。
「研究所が襲われました」
「聞こえとる。無事か」
「みんな」
「なら、鍋を焦がすな」
グスタフは研ぎ石を置いた。いつもの顔に戻したつもりらしい。眉間だけが戻っていない。
「原稿は」
「無事です。グスタフさんが分散して保管しろと言ったから」
「当たり前のことだ」
「ソフィアさまも、そう書いていました」
「言うじゃないか、あの嬢ちゃん」
グスタフは自分の荷袋の底から小さな包みを出した。干したベリーと、蜂蜜の小瓶。前の補給で帝都から届いていたものを、これまで黙って取っておいたらしい。
「アリアの工房から、わしに回ってきた。『前線で、リーゼさまにも、たまには甘いものを』だと」
「グスタフさん、隠してましたね」
「甘いものは、使いどころを間違えると腹の足しにならん」
「今が使いどころ?」
「今だ」
彼は小鍋に水を張り、昼の残り米を入れた。米は椀三つぶん。ベリーを八粒刻み、蜂蜜を匙の半分だけ垂らす。甘さが先に鼻へ刺さり、あとから干し果実の酸味が上がった。
甘い粥。
兵士全員には出せない。椀にして十二、薄めて十六。だからこれは、夜番に立つ者と、伝令の馬を替えた係の兵へ回すことにした。
「アリアのデザートには届かないですね」
「届かんでいい。ここで作るものは、ここで効けばいい」
グスタフは木べらで鍋底をこすった。
「礼状」
「はい」
「ソフィアにもだ。お前の字で、無事だと書け。余計なことは書くな。あいつは余計な心配を読む」
「グスタフさんはアリアに」
「なぜわしが」
「アリアの字、グスタフさんに似てきています。あれ、真似しています」
グスタフの手が止まった。
木べらの先から粥が一滴、鍋に落ちる。
「誰が、そんなことを教えた」
「誰も。字を見れば分かります」
「ふん」
怒っている音ではなかった。火が爆ぜたせいにしておく。
「火床を起こしたら書く。短くな」
「長くてもいいと思います」
「長文は甘えだ。料理と同じで、必要なものを残せ」
そう言って、彼は蜂蜜の瓶をもう一度傾けた。
甘い粥は、眠る前の兵士たちへ小さな椀で配られた。誰も大声を出さない。ただ、口に入れた瞬間、肩の位置が下がる。匙が椀底を掻く音だけで十分だった。
* * *
灰が白くなり、天幕の外で鍋蓋が鳴り始めるころ、手紙を書いた。
ソフィアさま宛てには、無事だと書いた。前線の厨房が二つになったところでインクがにじみ、袖口で押さえてしまって、余計に広がった。エマの酵母は生きています、と小さく足す。アリアの手紙を読んでも鍋は焦がしませんでした、と書いたら、肩から力が抜けた。
結びで筆が止まった。
帰ります。
そこまで書いて、筆を浮かせた。インクの粒が紙に落ちる前に戻す。
戦場の紙に、日付のない約束を書くと、妙に軽くなる。
削って、別の言葉にした。
『帰って、おにぎりを握る手を残します。』
グスタフは隣でアリア宛ての手紙を書いていた。
字は大きく、紙の上で不機嫌そうに整っている。
『五百個で満足するな。型を洗う手が止まれば菓子は止まる。砂糖を量り間違えれば味が崩れる。運ぶ途中で落とせば、笑顔まで届かん。そこを見ろ。よくやっている。』
「そこ、もう一声」
「褒めとる」
「硬いです」
「柔らかい菓子を作る人間に、手紙まで柔らかくする必要はない」
それでも、彼は封蝋を取ってから筆を戻した。
『戻ったら、食わせろ。』
封蝋を押す手つきが、やけに乱暴だった。
手紙は同じ伝令に託された。馬は替えられ、騎手は甘い粥を一杯飲んでから出発した。彼は椀の底を親指で拭い、礼を言うかわりに深く頭を下げた。
雪の上に蹄の跡が二本、南へ伸びていく。
空椀を洗い桶に沈めた時、遠くから別の音が聞こえた。
鈴の音。
馬車ではない。雪道を走る橇の、低く曇った鈴だった。




