【142】二つの厨房
朝の点呼が散りきる前に、軍属の係官が図面を抱えて厨房へ踏み込んできた。雪を払う暇も惜しかったらしく、油紙の端から水が垂れている。配膳台を空けると、地図ではなく、火床と大鍋と人の通る線が現れた。
「現厨房の隣に、同規模の厨房を一棟足します」
「同規模」
「厳密には一回り小さい。火床は同じ数、出入口は一つ。柵を立て、通す人間を絞ります」
配膳場に面した今の厨房。その背後に押し込む新しい厨房。二つの四角が、細い通路でつながれていた。
公開厨房。
奥厨房。
図面の隅に、フィンさんの字でそう書いてある。
公開厨房は今まで通り、兵士も避難民も近づける場所に置く。湯気と鍋が外から見え、配膳の列もそこで捌く。奥厨房はその後ろを柵で囲い、入れる者を限る。仕込みの芯になる火は奥へ寄せる。エッセンスの匙加減も、毒見皿に落ちる黒い粒を拾う目も、外へは出さない。
ダリアが鍋へ手を伸ばすなら、人混みと湯気の中で動くことになる。
本体の火は、その奥。
「囮、ですか」
係官は口を開け、図面へ目を落とした。答える権限はなさそうだった。
図面を抱え直し、本部の幕へ向かうと、殿下は地図台ではなく厨房図に手を置いていた。隣にフィンさんが立っている。
「公開厨房を囮に?」
「人は囮にしない」
殿下は間を置かなかった。
「鍋を見せる。人は守る。公開厨房にも料理人を置く。ただし手は軽い作業に絞る。野菜を洗わせる、切らせる。鍋は温めても、味の芯には触れさせない。配る時は列の目がある。敵が何かを混ぜるなら、手元の目と列の目を両方抜ける必要がある」
「全部奥に閉じる方が安全では」
「閉じるほど、内側の失敗が見えません」
フィンさんが線の上を指で叩いた。爪の音が乾いていた。
「皇宮の毒見も同じです。見える場所と、守る場所を分ける。柵一本より、人の目が百ある方が安い時もあります」
「奥厨房に入れるのは?」
「料理側はリーゼさんとグスタフ殿、ラルフ殿、ベルント殿まで。こちらはわたくしとヴィクトル殿。殿下は状況次第です」
「エマさんたちは」
「当面は公開厨房と配膳です」
「当面」
「必要が生じれば、あなたが決めてください」
必要が生じれば。
紙の白い余白が、そこだけ寒く見えた。
* * *
奥厨房は、二晩で立てろと言われた。
笑う暇もなかった。
冬の膠着は、止まる時間ではない。戦闘に出られない兵が十数人、馬房の修理を終えた軍属が道具箱を抱えて来る。避難民の男たちも「飯が遅れるなら困る」と袖をまくった。数えるたび人数が増え、延べ三十人近くで半日交代に落ち着いた。手を止めれば、夕餉が遅れる。
問題は材料だった。
新しい木材はない。壊れた荷箱を割って板を取り、予備の柵から真っすぐな丸太を抜く。折れた馬車の側板は泥を削れば使えた。雪を吸った板は薪にもならないが、壁ならまだましだった。釘は足りず、曲がったものを叩いて戻した。グスタフは火床の位置にだけ厳しかった。
「煙の逃げ道を間違えるな。料理人を燻してどうする」
「料理長、ここは戦場です」
「戦場でも煙は上へ行く。物理に敬意を払え。咳で味見ができるか」
ラルフが吹き出し、濡れた板を肩に戻した。
屋根の梁を上げる時、ヤンが上へ這い上がった。足場の霜を靴底で削り、縄を歯で噛む。村で雪下ろしをしていたらしい。下ではエマが見ないふりをしていた。けれど指はエプロンの端をねじり続けている。
「ヤン、右の紐――」
「先だろ、分かってる」
「分かってる時ほど落ちる」
「母さん、見ないで」
「見てない。手、離すな」
完全に見ていた。
ベルントは板を運び、ラルフは釘の代わりに使う鉄の留め具を探し、フィンさんは作業場へ入る人間の顔を一人ずつ確かめた。笑顔のまま袖口から靴底へ視線を落とし、指先で止める。彼の前を通る者は、自然と背筋を伸ばした。
完成した奥厨房は、公開厨房より低めで、奥行きも短い。火床だけは三つ押し込み、水甕は二つ置けた。出入口は削って一つにした。柵は丸太を縦に並べただけで、鍵もない。鍵があれば、鍵を持つ人間が代価になる。フィンさんの判断だった。
「入口にはわたくしが座ります」
彼は小さな椅子を置き、膝に剣を横たえた。
やさしい従者の顔で、通路を塞いだ。
* * *
夕餉の鐘が鳴る前に、新しい動線を試した。
粥の本体は奥で炊く。公開厨房へ出すのは洗った具材と空鍋、配膳台の椀。蓋つきの桶で粥を運び、表の鍋で具と合わせる。味はそこで決める。
紙の上なら一行。
最初の桶で詰まった。
「冷める」
ラルフが桶の側面から手を引き、顔をしかめた。
「距離が長い」
「文句で縮むか。布だ」
グスタフが濡らして絞った厚布を蓋の上に重ねた。その上から乾いた布をかける。ヤンが灰を撒いた道を使えば足元はましになるが、桶は重い。ベルントとラルフが二人で担ぎ、途中で肩当てがずれた。息を合わせ直す一呼吸の間に、白い湯気が横へ逃げる。
公開厨房に着く頃、湯気は痩せていた。
わたしは鍋に向き直った。
冷めた分を、火だけで戻さない。鍋底へ匙を差し込み、粥を起こす。見回り帰りの兵が手袋を噛んで外す。足の届かない椅子で、子供の靴が椅子の脚を蹴る。灰を撒いたヤンの鼻はまだ赤い。エマの指は、配膳台で荒れている。
全部を鍋に戻すつもりで、底から大きく返す。
薄い金色が、湯気の奥で筋になって立った。
「光、戻りました」
ベルントが息を吐くように言った。
「味は」
グスタフが匙を差し出す。わたしは一口取った。塩の角が舌に当たる。奥厨房と公開厨房のあいだで、味が身構えていた。
「塩、仕上げで半分だけ。香りはここで」
「理由」
「奥で入れると、桶の中で死にます」
「よし」
グスタフはそれ以上言わなかった。
配膳の列に、いつも通り椀が並んだ。
兵士たちは厨房が二つになったことに気づいている。気づいていないふりをしている者もいる。けれど椀を受け取った兵士が一口すすって、眉を動かさなかった。隣の若い兵は二口目を急いだ。
椀の湯気が、いつもの高さで立っている。
わたしは空桶の縁を指で叩いた。
「次、運んで」
* * *
奥厨房の火を灰に埋めて、脇でローザの匙を磨いていると、フィンさんが椅子に座ったまま声をかけてきた。
「リーゼさん、その匙は?」
「ローザちゃんのです。お父さんが作ったって」
「あの小さな椅子に一番に座っていた子ですね」
「はい」
フィンさんは剣の柄に指を置いた。撫でる場所が決まっている。親指の付け根が当たるあたりだけ、革の色が濃くなっていた。
「そこ、いつも触りますよね」
「癖になっていますか」
「革の色が違います」
「困りました。剣より先に、柄で見破られる」
「戦争が終わったら、フィンさんは何をしますか」
聞いた瞬間、布を動かす手が止まった。踏み込みすぎた。
フィンさんの笑顔は崩れなかった。視線だけが剣へ落ちる。
「皇宮に戻ります」
「それは予定です」
「予定は大事ですよ」
「したいことを聞きました」
フィンさんの指が、剣の柄の上で止まった。
火の音がする。奥厨房の新しい木材が、熱に慣れず鳴った。
「殿下とあなたを、無事に皇宮へお連れすることです」
声は穏やかだった。けれど剣の鞘が、膝の上でかすかに鳴った。十年、誰かの皿の前に立ってきた人の返事だった。
「それ、フィンさんの分は」
「入っています」
フィンさんは、今度ははっきり答えた。
「わたくしがそうしたいのです」
わたしは匙を布で包み、道具箱の奥へ戻した。明日の朝も使う。
公開厨房の火は落とされ、配膳場の椅子には白い霜が薄く張っていた。フィンさんは入口に座ったまま、眠っていない。
幕が乱暴にめくれた。
ラルフだった。頬に煤がつき、片手で短剣を半分だけ抜いている。
「リーゼさん」
声を抑えているのに、火床の灰が跳ねた気がした。
「来た」




