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【141】膠着

 水桶が先に滑った。


 抱えていた兵は堪えようとして、踏み固められた道に肩から落ちた。桶が跳ね、氷水が袖口へ入る。雪は止んでも消えず、昼に表面だけ緩み、夜に噛み直されていた。配膳前の薄明かりをぎらりと返す白い道で、戦闘ではない怪我が出る。冬の陣では、それがいちばん腹立たしい。


「リーゼさん、灰」


 声をかけてきたのはヤンだった。エマの上の息子で、背は高いのに、横から見るとまだ少年の薄さが残っている。両手に布袋をぶら下げていた。


「火床の?」


「うん。村ではそうしてた。雪の上に、薄く。撒きすぎると泥になるから……薄くです」


 それを言うために、朝から灰置き場を覗いていたらしい。袋の口は紐まで緩んでいる。


「配膳場から軍医の天幕まで。子供たちの椅子の周りも。二袋で足りる?」


「一袋半。残りは水場に回します」


「任せる」


 ヤンは灰袋を肩に上げ、道へ灰を振った。雪の白に灰色の筋が走る。頬も髪も汚れ、くしゃみを一つしたが、踏んだ足は流れない。子供たちはさっそくその筋の上を行ったり来たりし、エマが「走らない」と鍋の蓋を置くより低い声で止めた。


 ローザは小さな椅子に腰かけ、自分の長靴の裏を灰へ押しつけている。


「灰のくつ」


「滑りにくい靴だね」


 そう返すと、ローザは得意げに片足を上げた。灰がぱらぱら落ちる。


 村は燃えたのに、子供は灰で遊ぶ。胸の奥が変なふうに詰まって、けれど手は灰袋の残りを数えていた。火床の灰にも限りがある。冬は、何でも食べる。薪も、灰も、布も、人の余裕も。



 * * *



「敵、動きませんね」


 昼の仕込みが詰めの段に入った頃、ベルントが北の空を見ながら言った。包丁は止めていない。凍った蕪を割る音が硬い。


「動かないというより、動けない」


 答えたのはヴィクトルだった。外套の裾に雪をつけ、いつ入ってきたのか分からない顔で火床に寄る。胸に下げた札には諜報補佐とある。札だけはきれいで、靴は泥と雪で黒かった。


「ゼルギウスも補給線が伸びすぎている。本国からここまで、雪を避けて馬車を通せば半月以上。馬を替えれば早くなる、と机の上では言える。替え馬に食わせる麦、護衛の口、車輪を直す鉄。荷は勝手に前へ進まない」


「前線に近い村は焼いたのに?」


「焼いたからだ。燃料と食料をそこから取れない。戦争は、敵の家を焼くと自分の薪も減る」


 ベルントは火床の奥を見た。薪が割れて、火の粉が一つ跳ねる。


「凍えてるんですか」


「凍えている。揉めてもいる。兵站の責任者は『道が悪い』と言い、現場の指揮官は『遅い』と言う。どちらも半分は正しい。ダリアが本格的に動かないのも、雪で作戦を組みにくいからだろう」


 ダリア。


 その名前で、火床のそばにいた兵が湯杓子を持ち直した。ヴィクトルがもたらした警告は、厨房の全員が知っている。知らない顔で芋を剥き、知らない顔で皿を並べているだけだ。


「冬の間は、戦闘なしですか」


「なし、とは言わない。小さく噛み合う戦闘はある。斥候がぶつかる。薪場で揉める。馬を奪いに出た連中が、戻りが遅い。けれど双方とも大きく動けば、剣より先に寒さで死者を出す」


「動かないのは、いいことですか」


 ベルントの問いは、兵士のものだった。


 ヴィクトルは返事を急がなかった。火に手袋をかざし、指を曲げ伸ばしする。


「今日の死者は増やさずに済む」


「でも戦争は終わらない」


「終わらない。終わらないまま、腹は減る」


 冬の戦争は、そこが嫌だった。


 剣が止まっても鍋は止まらない。動かない日ほど、粥の薄さや塩の配り方が兵の顔に出る。腹が冷えると口数が減る。口数が減ると、命令の声だけがやけに通り、陣営全体が硬くなる。


 だから火を点ける。


 偉そうな理屈ではなく、朝の粥をいつもの時間に出すために。



 * * *



 鍋の匂いより先に、湿った弦のきいきいいう音が来た。


 フィドルはいつの間にか火のそばに出ていた。フリッツという兵士が湿った弓毛を爪で弾き、音が逃げるたびに顔をしかめる。横笛を持ったヘンリクが加わろうとして、息を吹いた途端に外した。鍋の蓋に手を伸ばした若い兵は、そこでグスタフに怒鳴られた。


「鍋で拍子を取るな。底が歪む」


「一回だけ」


「一回で歪む」


 怒鳴られた兵は、空の薪箱を叩くことになった。


 夜、音は広がった。誰かが戦場の歌を張り上げ、途中で故郷の節に流れ、脇から酒場の下品な合いの手が刺さる。歌詞を間違えた者がいて、笑いが起きる。笑ったあと、誰かが咳をし、別の誰かが火に薪を足した。笑いの輪はそこでいったんほどけ、それでも薪箱の拍子だけ残った。


 その中で、ローザが歌い始めた。


 子供の高い声だった。旋律は単純で、同じ節を何度も繰り返す。何の歌か分からない。けれどエマたちの手が、配膳の途中で止まった。


「村の歌?」


 小声で尋ねると、エマは鍋ではなく火の方を向いた。


「収穫祭の歌です。秋の終わりに、小麦をしまってから」


「今頃に」


「はい。今頃」


 ローザは歌詞をところどころ間違えた。間違えるたび、避難民の女たちが口の中で正しい言葉を足す。声に出す人は少ない。けれど歌は途切れなかった。


 最後の節で、兵士の誰かが手拍子を打った。


 早すぎる。


 エマの眉が上がる。手拍子はすぐ遅くなった。子供の息に合わせる。歌い終えたローザは、母親の膝へ潜り込み、毛布から目だけ出した。そこで拍手が起きる。


 大きな歓声ではない。


 でも、天幕の布を押す風の音だけではなくなった。



 * * *



 拍手がほどけた頃、殿下が火床の脇へ来た。


 肩の三角巾は外れている。軍服の袖も通しているが、左腕は身体に近いところで固まっていた。フィンさんが離れた場所で立ち止まり、こちらを見ている。見張りというより、回収係の顔だ。


「殿下、外は冷えます」


「冷えるな」


「戻ります?」


「飯は」


「夕食は終わりました」


「残りでいい」


 相変わらずだった。


 小鍋に残りの米を入れて温め直した。鍋肌に張りついた米を木べらで剥がし、塩を手のひらに取って混ぜる。鮭はない。具もない。けれど、冷えた夜に握った米は、それだけでちゃんと料理になる。


 殿下へ渡す時、左手が出かけて止まった。顔には出さない。出さない分、指先だけが固い。わたしは何も言わず、右手側へ差し出し直した。


「気を遣われた」


「料理人なので」


「便利な言葉だ」


 殿下は火の前で塩むすびを食べた。


 遠くで、まだ誰かが細く歌っている。馬が鼻を鳴らし、天幕の布が風に擦れる。殿下は最後の一口を飲み込んで、指先についた塩を見た。


「ヴィクトルから聞いたな」


「ダリアのことなら」


「ああ」


「聞きました」


「お前の傍を――」


「離れない、ですか。無理です」


「最後まで言わせろ」


「言われても、殿下が前線にいる限り無理です」


 殿下は口を閉じた。火が薪の内側を食べる音だけがした。


「……分かっている。だから別の方法を取る」


「別の」


「お前を後方へ下げたい。だが、聞かない」


「はい」


「そこは即答するな」


「ここでしかできない仕事があります」


「知っている」


 殿下は空になった手を握り、開いた。塩の粒が指先に残っている。


「ダリアが料理に近づくなら、料理の近くにいるお前を標的にする。なら、料理とお前の位置をずらす。敵が見ている厨房と、本当に仕込む厨房を分ける」


「厨房を、分ける?」


「城でいう外郭と内郭だ。偽の火床を焚く。大鍋は見える場所に置く。本当に切って煮る場所は――」


「煙でばれませんか」


「だから火の数を変える。風も見る。詳しい図はフィンが作っている」


 フィンさんが遠くで、何も聞こえていない顔をしていた。たぶん全部聞こえている。


「殿下、それは人手が」


「兵を三十、こっちから削る。避難民からも十人、無理を頼む。板も布も食う。だが、今の膠着をただ待つ時間にするより安い」


 三十、十。頭の中で、配膳の列から腕の空いている顔を拾ってしまう。逃げ場のない数だった。


 殿下は立ち上がった。雪明かりの中で、影が細長く伸びる。


「飯、うまかった」


「具なしです」


「だから分かりやすい」


 それだけ言って、殿下は天幕の列へ戻っていった。フィンさんが半歩遅れてつく。左腕を庇った歩幅まで見て、わたしは小鍋を洗いに戻った。


 朝の湯気に紛れて、係官が厨房へ運んできたのは地図ではなかった。


 火床と大鍋の位置が細かく描かれた、一枚の設計図だった。

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