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【140】子供たちの椅子

「リーゼおねえちゃん」


 配膳の列が途切れ、鍋の底をこそげていた時、袖の下あたりから声がした。


 見下ろすとローザだった。初日、母親の腕の中で紫色の唇をしていた子だ。今日は毛布を肩に引っかけ、自分の足で立っている。鼻の頭が赤い。片方の袖は濡れて、固くなっていた。


「ローザちゃん。寒くない?」


「さむい。けど、いける」


 両手で布包みを抱えていた。持ち上げるたび腕が震え、包みの端が胸に当たる。わたしは鍋べらを置き、その場に膝をついた。


「それ、見せてくれる?」


「これ」


 布がほどけた。


 中にあったのは、木で削った小さな匙だった。大人の小指ほどの長さしかない。持ち手に波のような模様が彫ってあり、先は子供の口に合わせて薄い。雑に作ったものではなかった。何度も握られ、油が馴染み、角が丸くなっている。


「お父さんが、つくったの」


「ローザちゃんのお父さんが」


「うん。お父さん、いない。でも、これ、あるから」


 そう言ったあと、ローザは唇を噛んだ。匙からは目を離さない。


「ローザちゃんが使う匙じゃないの?」


「あたしの、もう一こある。これは、おねえちゃん」


「わたし?」


「おかゆ、ついでくれるから。お父さんのスプーンで、やって」


 差し出された匙を両手で受け取った。


 軽い。


 なのに掌の真ん中に残る。木目のへこみに、誰かの指がまだ引っかかっているようだった。


「ありがとう。大事に使う」


「うん」


 用事は済んだ、と言うようにローザは駆け戻った。長靴が雪に取られ、片膝が折れる。近くの兵士が反射的に手を伸ばし、触れる前に引っ込めた。ローザは歯を食いしばって立て直し、母親の膝に飛び込む。


 エマがこちらへ頭を下げようとしたので、わたしは先に匙を掲げて見せた。


 謝るものではない。


 預かったものだ。



 * * *



 子供がまた粥をこぼした。


 椀は割れなかった。けれど熱い粥が膝に落ち、母親が布を押し当て、配膳の列が詰まる。泣き声で馬が耳を振った。


「低い椅子が要る。十個、できれば十五」


 わたしが言うと、ラルフが周囲を見回した。


「材料は。椅子を作る板なんて残ってないぞ」


「空き箱を割る。樽板も。薪山から平たいのを抜いて……釘は?」


「六本」


「足りない。紐で縛る。楔も使う」


「料理人の仕事、どんどん増えるな」


「食べる場所まで料理です」


 ラルフは愚痴半分に笑い、使えそうな箱を拾いに行った。


 ヤンが雪かき用の棒を抱えてやって来る。昨日から、彼は何か役を探して厨房の周りをうろついていた。灰を撒いてくれたと思えば薪山を積み直し、入口で濡れた靴を抱えて右往左往している。村では雑用でも、陣営では立派な仕事になる。


「板、切れる」


「刃物は大人の前で。指を切ったら、今日の粥係から外すよ」


「切らない。村でやってた。父さんよりは下手だけど」


 父さん、のところだけ声が落ちた。ヤンはすぐ板へ目を戻す。


 ベルントも手伝いに入った。兵士の手は大きい。細かい木組みには不器用だが、板を押さえる力は強い。グスタフが横から口を出す。


「座面を低くしすぎるな。立つ時に椀をひっくり返す。粥も布も無駄になる」


「料理長、椅子まで見ますか」


「食卓に載るものは全部見る」


 最後の紐を締めた時、低い椅子と腰掛けが十六個並んでいた。


 形は揃っていない。箱の上に板を渡しただけのものもある。樽板の曲がりをそのまま生かした小さな腰掛けもある。釘は六本ぜんぶ消えた。麻紐も二束目をほどき、親指を打った兵士が二人、雪に手を突っ込んでいた。けれど子供の足は地面についた。両手で椀を持てる。こぼしても、すぐ布を当てられる。


 配膳を始める前、ローザが最初に座った。


「足、とどく」


 両足がぱたぱた鳴る。


「届くね」


「ここ、あたしの?」


「みんなの。でも今日はローザちゃんが一番」


 ローザは胸を張った。


 その隣へ、頬のこけた男の子が滑り込む。エマはもっと小さい子を抱え、座面におろす前に板を手で叩いて確かめた。兵士たちは最初、どこに足を置けばいいのか分からない顔をしていた。誰かが自分の椅子を後ろへ引く。別の誰かが膝の上の手袋を片づける。


 配膳場の形が変わった。


 子供が床に近い場所で椀を抱えるのではなく、食べる人として席についた。


 小さい。

 けれど、冬はそういう小さいところから崩れる。



 * * *



 最後の鍋を伏せてから、ローザの匙を火床の脇で磨いた。


 濡らした布で拭き、乾いた布で水気を取る。木目に指を引っかける。持ち手の波模様は浅い。何年も使えば消えてしまうかもしれない。今のうちに、指で覚えておく。


 ヘルマンの椀を思い出した。


 歯型のついた、戻ってきた椀。


 木や鉄は、思ったより人を逃がさない。いつも指が当たる場所、急いだ日にぶつけた傷、洗い布の粗い目。立派な魔術ではない。ただの摩耗なのに、鍋の湯気より長く残ることがある。


 ヘルマンの椀には、噛みしめて食べた跡があった。


 ローザの匙には、父親が薄く削った口当たりがある。


 わたしの鍋は、どうだろう。


 鍋底の焦げをこすっていると、四百人分の空腹まで削っている気がした。戻らなかった椀のことも、足の届く椅子で息をついた子供たちのことも、布の下でざりざり鳴る。思わず握り込んだ。


 火床で薪が弾けた。


 ベルントが隣に腰を落とした。椅子作りで余った短い板を握っている。削り屑が袖にくっついていた。包丁ではなく、小さなナイフで角を削っている。


「リーゼさん」


「うん」


「俺、戦争が終わったら料理屋を開きたい」


 刃先が木目に引っかかり、きしっと鳴った。


「どこで」


「実家の村です。ハーフェンシュタットの北の、炭焼きの村。父の小屋の隣に、小さい店を……いや、隣は狭いか。道の曲がるところに」


「お客さんは?」


「村の人です。炭を買いに来る人もいます。道に迷った人は……まあ、来ます」


「迷った人頼みは危ない」


「山道なので。二日に一組くらいは」


「多いね」


「多いんです」


 ベルントは笑いかけて、やめた。板の角を削る手も止まる。


「うちの村、外で食べる場所がないんです。みんな家で食う。家がある人は、それでいい。でも、旅の人とか、一人になった人が……火のそばで飯を食える場所があってもいいと思う」


「いい店になる」


「まだ鍋もないです」


「鍋は高いよ。焦がすと泣く」


「稼ぎます。炭運びでも、皿洗いでも」


「じゃあ最初の鍋は厚い底のを選ぼう。薄いのは粥がすぐ怒る」


 ベルントがやっと笑った。


「最初の椀を、リーゼさんに出したい」


 火の光を浴びると、削り屑をつけた頬は年相応に見えた。昼に資材係へ頭を下げて回った時の、肩の硬さはない。


「約束する。最初の客になる」


「本当に?」


「本当に。椅子が低くても座る」


「低くはしません。今日、料理長に椅子の高さで怒られたので」


 今度はわたしが笑った。


 ベルントは削りかけの板を火にくべず、膝の上に置いたまま言った。


「終わらせて、帰ります」


「うん」


「帰って、作ります」


 外で風が鳴った。天幕の裾が浮き、冷たい空気が足首をなでる。


 霜が降りる前に、椅子の脚を寄せておかないと。朝は道が凍る。滑れば、椀を持った子供が転ぶ。


 火床の灰を取り分ける桶を探した。


 ベルントが顔を上げた。わたしも匙を布に包む。


 天幕の外で、雪を踏む軽い足音がした。

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