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【139】膝下の雪

 補給隊は来なかった。


 馬番が南の道を見に出た頃、雪は止んでいた。止んだだけだ。天幕の入口を肩で押し開けると、白い壁が膝の下まで積もっていた。踏み込んだ長靴が沈み、引き抜く時、湿った音で足首をつかまれる。


 馬車の轍は消えていた。


 南の道も北の丘も、同じ白さの下に埋もれている。馬だけなら出せる。荷車は無理だ。車輪が雪を抱いて止まり、押す兵の腰を先に折る。荷駄馬に背負わせても、一頭につき一袋か二袋。隊列は徒歩と大差ない。


 帝都からの補給線は二日遅れる。悪ければ三日。


 ソフィアさまが議会で喉を枯らして取ってくれた予算も、袋に詰まってここまでは歩いてこない。



 * * *



 点呼の声がまだ外に残っているうちに、フリードリヒ将軍が厨房まで来た。


 供も連れていなかった。外套の肩に雪を乗せたまま、配膳台の脇に立つ。将軍が自分から厨房へ足を踏み入れたのは初めてだった。


「リーゼ・ヴァイスフェルト。現有の食料で、何日もつ」


 わたしは昨夜のうちに書いた板を差し出した。紙は湿気を吸って丸まる。前線では木の板に炭で書いた方が、意外と強い。


「兵士と避難民を合わせて、通常量なら三日。粥を薄め、具をずらして四日半。ただし四日目の午後から作業量が落ちます。北の見回りは危ないです」


「補給は四日後の見込みだ」


「一日、足りません」


「半量にしろ」


 刃物で切ったような声だった。けれど命令だけで済む顔ではない。将軍は、先に自分の皿を空にしてきた人の目をしていた。


「半量にすれば倒れる兵が出ます。避難民の子供と老人は先に倒れます」


「分かっている」


「なら、半量にしない方でいきます」


 将軍の眉が動いた。


 わたしは板の端を爪で叩いた。


「軍の兵糧だけで数えるから一日足りないんです。避難民の小麦を入れます。ハンスさんの保存食も、封を切る。……ただ、鍋を二つに分けたら揉めます。軍だけ温かい、避難民だけ薄い、そう見えたら終わりです。ひとつの鍋にします」


「避難民の小麦は彼ら自身の越冬用だ」


「はい。だから奪いません。帳簿につけて、あとで返す。金か麦で。今は頼みます」


「頼んで、断られたら」


「その時は別の手を探します。聞かないまま半量にするのは、鍋が先に負けます」


 将軍は長いこと黙っていた。火床ではグスタフが乾いた薪を選別している。薪が一本、ぱきりと割れた。


「兵は不満を言う」


「言わせます。椀を投げる前に、口で」


「貴官が説くのか」


「わたしより、ベルントです」


「一兵卒に、軍の食糧方針を語らせるつもりか」


「一兵卒だからです。ベルントは第三歩兵隊の人です。わたしは厨房の人です。兵士の椀に何を入れるかは説明できます。でも、その椀を隣の人とどう分けるかは、同じ列に並ぶ人の声の方が強い」


 将軍の口元に皺が寄った。


「料理人にしては、部隊を読む」


「料理も部隊です。火の前で誰かが手を止めたら、運ぶ盆が空く。食べる列が詰まる。鍋はその間に焦げます」


「ふん」


 短い鼻息だった。グスタフのそれによく似ていて、わたしは唇を噛んだ。


「やってみろ。ただし、暴発させるな」


「はい」



 * * *



 ベルントは最初、板を抱えたまま固まった。


「俺が、皆に話すんですか」


「うん」


「俺、役職ないです」


「ないから頼んでる」


 彼は板の数字を読み、火床の灰を靴先でならした。


「嫌がる人、いますよ」


「いる」


「怒鳴る人も」


「怒鳴る」


「……殴る人は」


「そこは逃げて」


 ベルントは口を半分開け、閉じた。


「それでも俺が行った方がいい?」


「ベルントが嫌なら、わたしが行く。でも、あなたが話した方が、喧嘩の火は小さく済む」


 ベルントは息を吐いた。納得ではない。背嚢を背負い直す前の顔だった。


 彼は第三歩兵隊の天幕を一つずつ回った。声を張り上げない。焚き火の脇にしゃがみ、革靴を縫い直している兵の横で、板の数字を示す。天幕ごとに順番は崩れた。半量にしたら北の見回りが落ちる、と先に言う時もある。避難民の小麦を混ぜる話まで行く前に、舌打ちが飛ぶ時もある。ベルントは板を膝に置き、兵糧の残りと椀の数を指でなぞった。自分たちの椀の隣に避難民の椀が来る。その言葉だけは、どの天幕でも飲み込まなかった。


「俺たちの飯を取られるのか」


 最初の天幕で誰かが言った。


「取られない。俺たちの鍋に入れて、俺たちも食う」


「同じことだ」


「半量よりましだ」


 ベルントの声は低かった。怒らず、拝まず、板を出す。灰汁をすくう手と同じで、浮いた言葉だけ横へ寄せていく。


 別の兵が、自分の椀を膝に乗せたまま言った。


「子供は、食わせろ。年寄りもだ。でも俺の班は明日、北の見回りだ。三刻歩く。腹が空いたら足が止まる」


「だから半量にしないって話です」


「本当に保てるのか」


「リーゼさんが保つって言った」


 その名前で、天幕の中が一拍ずれた。誰かが椀の底を指でかく。戻ってきた椀の温度を、兵士たちは覚えている。腹の底に残った粥の重さが、立派な言葉に勝つ時がある。


 夕方までに、第三歩兵隊から他の隊へ話が回った。


 反対はあった。罵声もあった。鍋に蹴りを入れかけた兵を、隣の兵が襟首で戻した。ひっくり返る鍋は出なかった。



 * * *



 避難民の代表として前に出たのは、エマという女性だった。


 昨日、列の先頭で焦げた布を肩に掛けていた人だ。三人の子が、彼女の後ろで袋の紐を握っている。夫のことは、誰かが小声で教えてくれた。焼かれた村に置いてきたものを、彼女は顔に出さない。背筋だけが異様にまっすぐだった。


「小麦を出せ、という話ですか」


「出してほしい、です。全部ではありません。今日と明日の分だけでいい。こちらの兵糧と混ぜ、全員の食事にします。子供と老人の分は毎食、先に取ります」


 エマは返事の前に、後ろの女たちを振り返った。


 袋を抱えた人たちがいた。袋の中身は多くない。けれどそれは、彼女たちが村から持ち出せた数少ない冬だった。


「分かりました」


 エマは短く言った。


 即答に近かった。わたしの方が息をのむ。


「いいんですか」


「よくはありません。けれど、ここで小麦を抱えていても、火床がなければパンにはなりません。粉は袋の中で人を生かせない」


 彼女は小麦袋の口を握り直した。


「条件があります」


「聞きます」


「子供の分を毎日、必ず。あと、わたしたちにも仕事をください」


「仕事」


「椀を配る手が足りないなら配ります。汚れた鍋が積もるなら洗います。床の雪でも払います。食べるだけだと、手が駄目になります」


 わたしはグスタフの方へ目をやった。彼は鍋の蓋をずらし、湯気を逃がしながら言った。


「配膳は手が足りん。洗い場もな。足が悪い者は豆の選別に回せ」


「エマさん、明日から配膳に入ってもらえますか。できる人は洗い物と豆選りも。朝に人数を教えてください。こちらも助かります」


 エマの口元が動いた。


「助かる、ですか」


「はい。かなり。今日は椀を洗う手が二人足りません」


「では、やります」


 礼を言いかけて、飲み込んだ。


 エマの手は、もう袋ではなく配膳台の端を探していた。


「明日の朝、火床の前に来てください」


「分かりました」



 * * *



 夕餉の鍋は、半量にならなかった。


 軍の米と豆を煮る横で、避難民の小麦粉を水で割った。急いで流したら、最初の鍋でだまが浮き、グスタフに柄杓でこづかれた。具は小さく刻み直す。香辛料は手が伸びかけてから戻した。今入れると匂いが飛ぶ。椀に注ぐ直前でいい。


 配膳台には、エマたちが立った。


 兵士が椀を差し出し、村の女から受け取る。互いにどんな顔をしていいのか分からないまま、短く礼を言う。声が硬い人もいた。普段より丁寧になる人もいた。


 子供たちは兵士の椅子の隣に座った。椅子が高すぎて足がぶらぶらしている子もいる。隣の兵士が黙って木箱を足元へ寄せた。


 誰かの椀から豆が二粒、子供の椀に移った。


 わたしはその方向を向かなかった。


 鍋の底が見えた頃、エマが奥から小さな包みを持ってきた。


「リーゼさん。これを」


 布を開くと、灰色の塊が入っていた。湿っていて、指で押せば戻りそうな柔らかさ。酸っぱい匂いが鼻の奥を刺す。腐敗ではない。眠っている生き物の匂いだった。


「パン種です。うちの村で三代続いた酵母」


「そんな大事なものを」


「村が焼けた時、母に言われていた通り、首に下げて逃げました。粉も釜も失ったけれど、これだけは残った」


 わたしは指を伸ばしかけて、止めた。手が粉と灰で汚れていた。


 塊の表面で、淡い金色が泡みたいに滲んだ。強い光ではない。目を離すと消えそうで、けれど確かに魔力がある。


「生きています」


「はい。生きています」


 エマは泣かなかった。布の端だけ、指で強く押さえていた。


「預かってもらえますか。ここで、また増やしてください。わたしだけでは守れない」


「預かります。でも、これはエマさんのものです。増やす時は、エマさんの手で」


 彼女は目を瞬いた。


「わたしの手で?」


「その方が、酵母が安心します。……たぶん」


 エマは布の端を直し、そこで初めて小さく息を吐いた。


 火床の脇の、熱すぎず冷えすぎない場所にパン種を置く。粉をひとつまみ、水を数滴。粉は惜しい。けれど餌を抜けば酸っぱく痩せる。人間の椀を削る時と同じで、削りすぎたら戻らない。


 夜の間に、灰色の塊は親指ひとつ分だけ膨らんだ。


 明日の鍋の板に、わたしは『パン種 餌』と小さく書き足した。


「食う奴が増えたな」


 グスタフが鍋蓋を押さえながら言った。


「はい」


 返事の途中で、別の鍋が吹いた。

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