【138】南風
火床の煙が横へ寝たとき、ベルントは灰汁取りの手を止めた。
北から頬を刺していた乾いた冷気が腰砕けになり、南の湿った風が陣幕を内側から膨らませる。鍋の湯気が押し戻されて、目元にまとわりついた。薪置き場の乾いた皮の匂いに、掘り返した土の生臭さが混じる。
ベルントが大鍋の縁から手を離し、空を見た。
「雪雲だ」
「早いですね」
「北方は早いです。父が炭を焼いていた頃も、初雪の前は決まってこの風でした。山の向こうの湿りが落ちてくるんです」
雲の腹は灰色を通り越して鉛に近い。遠くの丘の線がぼやけ、馬房の屋根に張った布がばたつく。二週間、戦場の音は遠いままだった。ゼルギウス軍の主力は動かず、偵察隊同士の小競り合いだけが北の丘の陰で乾いた音を立てている。その間にも薪は減り、塩袋の口は軽くなった。
膠着。
軍議ではそう呼ばれていた。わたしには、巨大な鍋の底で焦げついた粥を、誰もこそげられないでいるように思えた。
動かないだけで、火は消えていない。
* * *
麦粥の鍋底をかき混ぜていた時、見張り台から合図が上がった。
敵襲の笛ではない。けれど兵士たちの肩が一斉に上がる。フィンさんが奥の天幕へ走り、ラルフは配膳台の包丁を手元へ滑らせた。
坂道の向こうから現れたのは、槍でも旗でもなく、人の列だった。
最初は黒い点の連なり。近づくにつれ、それが肩を貸し合う大人と、荷物ではなく子供を抱えた女たちだと分かった。馬車はない。車輪が雪の前の泥に沈んだのだろう。藁縄を巻いた靴。煤のついた頬。濡れた毛布。誰かが背負っている戸板には、毛布をかぶせられた老人が横たわっていた。
北方の村から逃げてきた人々だった。
ゼルギウスの先遣隊が村を焼いた、と係官が息を切らせて告げた。家と食料庫を失い、森を二日歩いたという。六十二人。子供十九、老人八。若い男は、列の中でやけに目立つほど少ない。
「リーゼ殿、避難民の食事を」
「湯は沸いています。先に軍医へ回す人を分けてください。歩ける人も、手の色を見てから」
係官の視線が、そこでようやく火床に落ちた。
わたしは見張り台の合図を聞いた時点で、空いている鍋を火に掛けていた。大鍋には薄い麦粥。隣では豆と乾燥野菜が湯の中で戻り、小鍋には白湯、蜂蜜、塩。甘いと呼ぶには薄い。凍えた体に熱を叩き込むと、かえって危ない。唇と胃に、戻る道を思い出させる温度が要る。
「ベルント、自分で歩ける人は配膳台の左へ。支えが要る人は火の近く。顔色が悪い人は列に並べず軍医へ。迷ったら軍医です」
「はい」
「ラルフさん、椀を足して。兵士の携行椀も借ります。返す前に熱湯で洗うって伝えてください」
「分かった。おい、手の空いてるやつ――椀だ」
「グスタフさん、子供用は粒を潰して」
「言われんでもやっとる」
グスタフはすでに米を木べらで押し潰していた。粒の残った粥では小さい子の喉に引っかかる。木べらの動きだけで、必要なことを分かっている。
避難民たちは配膳場の手前で止まった。境目に爪先が並び、誰も最初の一歩を踏まない。誰かが子供を抱き直す。毛布の端から、灰に汚れた小さな手がぶらりと出ていた。
「こちらへ。温かいものから飲んでください」
わたしが声を張ると、列の前にいた女が一歩進んだ。四十代くらい。肩にかけた布は焦げていて、片手にはパン種を入れるような小袋を握りしめている。力を入れすぎて、布の縫い目が白く伸びていた。腕の中には、痩せた女の子がいる。
唇が紫だった。
「その子を先に」
母親はうなずこうとして、膝が抜けた。ベルントが脇を支え、ラルフが椅子を蹴り寄せる。わたしは小さな椀に粥を半分だけ注ぎ、湯気を手で割って温度を落とした。
「一匙ずつ。飲み込んでから次。早いと戻します。喉が驚くので」
母親の指では匙が鳴った。椀の縁をかちかち叩くので、最初の一匙だけわたしが運ぶ。女の子の口元に粥を当てる。閉じていた唇が、粥がつく分だけ開いた。
粥が入る。
喉が動く。
それだけで、母親の肩から力が抜けた。声が漏れたが、泣き声というより、長く止めていた息が壊れた音だった。
「名前は?」
「ローザ、です」
「ローザちゃん。次、いける?」
返事はない。けれど唇は、二匙目を押し返さなかった。
それで十分だった。
* * *
人を食べさせる時、鍋だけでは足りない。
座る場所を空けたつもりでも、濡れた布を掛ける縄が足りない。子供の足元に桶が出ている。凍えた足を火へ近づけすぎる者がいて、列が崩れるたび、誰の手が空いているか声で探すことになる。
避難民が入ると、厨房は配膳場では済まなくなった。
歩ける者には豆の汁を渡した。噛む力のない老人には薬膳ハーブを薄く効かせた粥。子供には蜂蜜を匙の先だけ。甘さが舌に当たると、椀を抱え込む指がほどけることがある。
ある老人は椀を持ったまま、いつまでも飲まなかった。湯気の向こうで、焦点の合わない目をしている。隣に座った若い兵士が、自分の椀をわざと大きな音ですすった。
「熱いうちがうまいですよ」
老人は音の方へ目を動かし、やっと匙を口へ運んだ。
別の子供は、椀を受け取った瞬間に両手で抱え込んだ。取られると思ったのだろう。わたしは近づかず、一歩半手前で止まった。
「おかわりの鍋もあります。飲めたら、また来て」
子供は椀の中だけを見ていた。やがて一口飲み、眉間のしわをほどく。こぼれた汁を袖で拭こうとして、熱さに目を丸くした。
その一口のあと、配膳台の木目に白い点が落ちた。
粉のような雪だった。配膳台の上に舞い、熱い鍋の湯気に触れると消える。間もなく粒が太り、天幕の布を湿らせた。兵士たちが追加の支柱を立てる。避難民の男たちも黙って加わった。焦げた袖の男が支柱を押さえ、めくれた親指の皮を口で噛み切って、また縄を引いた。
日が傾ききる前に、用意した鍋はすべて空になった。
空の鍋はうれしい。食べるべき人の腹に入った証だからだ。けれど今日の空鍋は、底を見せるたび勘定を突きつけた。
米袋があと四つ。豆は一袋半。乾燥野菜は底が見え、肉は薄い。薪は湿り始めている。明日、同じ数が来たら足りない。明後日は、計算するまでもない。
「補給線、明日だったよな」
ラルフが肩の雪を払いながら戻ってきた。髪の先から水が落ちて、配膳台に黒い点を作る。
「予定では」
「この降り方だと、馬車は止まる」
雪は地面を白く塗りつぶしていた。馬車の轍が消えていく。補給隊が通るはずの南の道も、天幕の影からは白い帯にしか見えない。
「殿下に報告します」
「俺が走る。リーゼさんは鍋」
ラルフは返事を待たず外套を掴んだ。出ていく背中に雪が貼りつく。
わたしは空鍋に水を張った。鍋肌についた粥の膜が、ぬるい水の中でほどける。捨てない。今日の残り香も、明日の出汁に回す。
米は砕く。肉は細かく刻んで脂を先に出す。薬膳ハーブは最後、湯気に香りだけ乗せる。薄いと気づかれる前に、温度と匂いで押し切る。それでも子供用の蜂蜜は削りたくなかった。
火床の灰を掘ると、赤い芯が残っていた。
屋根に積もる雪が、ずん、と低く鳴る。
馬番が南の道へ顔を向けた。すぐ首を振る。車輪の音はない。
蜂蜜の壺を棚に戻しかけて、やめた。
子供十九人。匙の先なら十九回。明日の朝も同じだけ来たら、三十八回。
蓋に置いた指を、まだ離せなかった。




