【137】鳩の足
鳩の足に結ばれていた紙片は、朝の配膳の湯気がまだ低く漂っているうちに届いた。
灰色の軍鳩だった。係の兵が小さな筒を外すと、鳩は嘴で指を突こうとし、外されてからようやく不満げに羽を膨らませた。籠の藁がかさりと鳴る。足環の番号を控える兵の鉛筆が折れ、舌打ちが湯気に紛れた。
紙片には皇宮の符丁と、短い伝言だけ。
情報屋を一名、前線へ送る。
名前はない。
それでも、胃のあたりが先に知った。
昼の粥釜を洗い始めたところで、ヴィクトルが現れた。
痩せていた。
半月会わない間に頬の肉が削げ、目だけが乾いた黒豆みたいに大きい。皇宮の保護下にいるはずの男が、鳩より遅れて前線まで出張ってきた。外套の裾には馬車の泥が固まっている。
「リーゼさん」
「ヴィクトルさん、その体で、どうやってここまで」
「皇宮の馬車。フリードリヒ将軍の許可証を借りた」
「将軍が?」
「正確には、エレナ殿下が将軍を動かした。俺は荷物扱い」
言いながら、厨房の天幕の脇に腰を落とした。座るというより、柱にぶつかって止まったような格好だ。膝が震え、指先は袖口の中で握り込まれている。
「水、飲みますか」
「水だと腹が冷える。温かいやつを、半椀で」
わたしは粥の残りに湯を足し、椀へ注いだ。塩をひとつまみ。シャルロッテの干し草みたいなハーブが湯気に混じる。
ヴィクトルは両手で受け取り、まず匂いを嗅いだ。癖なのか、疑っているのか、顔は謝らなかった。
「これは、シャルロッテのハーブが入ってる」
「分かりますか」
「組織にいた頃、覚えさせられた。薬草、香辛料、乾いた毒。匂いで産地を分けるのも仕事だった」
「便利な特技ですね」
「敵を毒殺するときに役立つ。あと、まずい粥に当たりをつける」
「これはまずい方ですか」
「塩が半つまみ少ない。戦場にしては贅沢な方」
喉が上下した。三口で椀が半分空き、四口目の前に、彼は急に息を整えた。
「リーゼさん。情報を持ってきた」
「食べてからでも」
「先に言う。俺が途中で倒れると困る」
手が椀の縁を押さえる。
「ダリアが、前線に出てきている」
* * *
木の匙を握り直した。匙の柄に粥が乾き、指にざらついた。
「ダリア」
「ゼルギウスの宮廷魔術師。ダークエッセンスの本物の使い手。組織の内部でも、顔を見た者が少ない女だ」
「殿下に――」
「もう伝えた。ここへ来る前に軍医の天幕へ寄った。殿下は眠っていたから、フィン殿に。起こすなと言われた」
起こすな。
それだけで、殿下の顔色が思い浮かぶ。
わたしは椀をテーブルに置いた。布の上で、底が鈍い音を立てる。手のひらは汗ばんでいた。
「目的は」
「お前だ」
短い言葉だった。
短すぎて、風の音の方が先に耳へ入った。
「捕獲ではなく、暗殺の可能性が高い。最後通牒の時点で、ゼルギウス上層部はお前の捕獲を諦めた。生かして奪うには護衛も輸送も交渉もかかりすぎる。消す方が安い」
「安い」
「嫌な言い方だが、上はそう数える」
ヴィクトルは椀を抱えたまま、湯気を避けるように顎を引いた。
「お前のエッセンス講習が、軍属料理人二十人を七日で底上げした。その数字が漏れている。二十人が各隊で鍋を持てば、負傷兵の戻りも、行軍の持ちも変わる。麦袋ひとつの価値まで変わる。ゼルギウスにとっては、包帯より厄介だ」
「軍事化した、ということですか」
「お前の意思とは別だ。敵には、厨房が兵器庫に見える」
火床の向こうで、ベルントが薪を組み直していた。湿った薪を嫌って、二本を嗅ぎ比べてから一本だけ捨てる。
グスタフはゼーベルを刻む手を止めない。ラルフは鍋の灰汁を取り、泡の色を見て、眉間に皺を寄せた。
あの手元で、料理が進んでいる。
戦争を彼らの仕事にした覚えはない。けれど、戦争の方が、彼らの仕事へ手を突っ込んできた。
* * *
「ダリアは、いつ来ますか」
「分からない」
「最短で」
「今夜でもあり得る」
火床の向こうで、鍋の蓋が鳴った。ベルントが慌てて布巾を取る。吹きこぼれの甘い焦げ臭さが、短く混じった。
「最長は」
「三ヶ月後でも笑えない。補給隊に紛れるか、負傷兵の家族の顔をするか、皿洗いから入るか。奴は、自分の足跡を他人に踏ませる女だ」
「来た時、わたしは何をすればいい」
「料理を作れ」
ヴィクトルは椀の底を見ていた。そこに地図でも沈んでいるように。
「ダリアはダークエッセンスを使う。だが根は、お前と同じ食の使い手だ。お前の料理が、奴の根を揺らせば、予定がずれる。手が止まる。一息でも、警備には値がある」
「殺さないんですね」
「俺は殺し屋じゃない。情報屋だ」
微笑んだが、口の片側だけだった。粥粒が唇の端についているのに、本人は気づいていない。
「殿下とフィン殿は、警備を倍にする、と言っている。夜番も、食材の受け渡しも。ただ、お前を完璧に囲うには人が足りない。敵の本隊も見張らなきゃならん。ダリアはたぶん、剣の届く場所じゃなく、鍋の中で来る」
「鍋の中で」
「お前の鍋に、何かを混ぜに来る。毒とは限らない。香り、記憶、空腹の向き。食い物の姿をした別のものだ」
わたしは火床を見た。二つの大鍋が湯気を上げ、蓋の縁から白い泡がにじんでいる。
「鍋は、わたしと、ベルントと、ラルフと、グスタフさんの目の前にある。混ぜるのは簡単じゃありません」
「そうだな」
肯定されると、逆に落ち着かない。
「誰でも信用するな、とは言わない。そんな厨房は回らない」
ヴィクトルは椀を空にし、底に残った米粒を匙で集めた。もったいないと思うのは、情報屋も同じらしい。
「知らない料理人、知らない手伝い、知らない商人が来たら、まず俺に見せろ。理由は『帳簿の確認』でいい。匂いと歩き方を見る」
「ヴィクトルさんが判別できる」
「ゼルギウスの組織人間の匂いは、俺が一番よく知っている。嫌になるくらいな」
わたしは椀の縁を布で拭いた。粥の温みが、まだ残っている。
誰でも信用するな、とは言わない。
信用しろとも、疑えとも言わない。見分けろ。厨房を止めるな。その二つを同じ皿に載せてくるあたりが、ヴィクトルらしかった。
* * *
ヴィクトルが宿舎の天幕へ引き取るころには、火床の赤が低くなっていた。寝かせるため、ベルントが毛布を二枚押しつけ、グスタフが「食って寝ろ」と干し肉まで持たせた。ヴィクトルは干し肉だけ断ろうとして、結局袖に入れた。
わたしは火床の前に残った。
ネルが膝に乗ってきた。重さが急に来て、息が詰まる。
「ネル」
「うむ」
「ダリアって、どんな女ですか」
「会ったことはない。が、エルヴィンが最後の旅で、似た系譜の人間に出会った話を、わしにしたことがある」
「似た系譜」
「食を、食でないものに変える者だ」
ネルは目を閉じた。耳の先だけが、火の熱で赤く見える。
「あの男は、エッセンスを世界に広げる夢を見とった。皿が人を救うと信じとった。だが同時に、皿で人を縛る者も出ると覚悟しとった」
「予想していた、ということですか」
「予想なら、外れた時に笑える。覚悟は、外れても残る」
ネルが膝の上で寝返りを打った。爪がエプロンに引っかかる。
「リーゼ。ダリアが来たら、戦うな」
「戦いません」
「今、返事が早かった。早い返事は、たいてい怪しい」
「……鍋は守ります」
「それでよい。料理を出せ。それしか、お前にはできん。それで足りる」
「それで、勝てますか」
「勝つ、という言葉は、料理人には合わん」
ネルは目を細めた。眠いのか、腹が立っているのか分からない顔だった。
「勝つのではない。出すのだ。誰が来ても、誰が座っても、椀を出す。毒を混ぜられぬよう見張り、火を絶やさず、腹を空かせた者に順番を守らせる。それが、お前さんの戦い方だ」
わたしは火床の薪を一本、奥に押し込んだ。
火が、ぼう、と明るくなり、ネルの髭の先が金色に光った。
鳩の足に結ばれていた紙片は燃やしてある。
灰になれば、どれが皇宮の伝言だったか分からない。
それでも火箸は、黒い紙片の端をつついたまま止まった。
情報屋を一名、前線へ送る。
送られてきたのは情報だけではない。
名前と、匂いのない手順と、わたしの鍋に近づく誰かの足音。
外で、鳩の籠がかさりと鳴った。係の兵が「餌、まだ要りますか」と聞く。
「要ります。豆を三粒だけ」
答えてから、三粒で足りるのか分からなくなった。




