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【136】グスタフ参戦

「うるさいッ! わしの鍋を勝手に動かすなと言ったろうがッ」


 怒鳴り声で目が開いた。

 外はまだ青黒い。片方の靴を逆に突っかけかけて、寝ぼけた手で直す。


 昨夜耳に残っていた薪割りの音ではない。布団の中で一瞬、敵襲かと思った。けれど次に飛び込んできたのが鍋だの火床だのという単語で、敵にしては台所に詳しすぎる。

 わたしは寝床を抜け、外套を引っ掴んで天幕を出た。


 厨房の天幕の前で、グスタフがラルフの胸ぐらを掴んでいた。

 ラルフは寝起きの顔のまま、片手だけ鍋の柄へ伸ばしている。掴まれても、そこだけは譲らないつもりらしい。


「グスタフさん」


「リーゼ!」


 振り返る拍子に、グスタフはラルフを放した。ラルフが咳き込み、最初に自分の襟ではなく鍋を見た。


「わしの差配しとった鍋を、こいつが勝手にずらしとった」


「ラルフさんが変えたのは、火の回りを良くするためです」


「火は火床で決まる。鍋を動かして誤魔化すな」


「両方です。火床と、鍋の腹に当てる位置と」


「……朝から生意気なことを」


「あと、ラルフさん。右の湯が吹きます」


 ラルフが慌てて柄を押さえた。湯気が一拍遅れて噴き、グスタフの眉間にまで湿った熱が届く。


「ふん」


 グスタフは鼻で言って、肩を揺らした。その肩から乾いた埃が落ちる。前髪は跳ね、旅装の裾には泥が固まっていた。夜をまたいで来たのだろう。


 怒鳴っているのに、目だけは先にわたしの額、手、足元を確かめていた。

 無事か、とは言わない。言う前に鍋へ戻る人だ。


「で、グスタフさんが、なぜここに」


「来ると言ったろう」


「聞いてません」


「聞かせとらん。言えば止めるだろうが」


「止めますよ」


「だから来た。お前が前線で炊き出しをしとるのに、わしが帝都で安穏と座っとれるか」


 帝都の研究所。グスタフに厳命された留守番。

 誰が穴を埋めたのか、尋ねる前に白衣の老人の顔が浮かんだ。


「ヴェルナー教授が、研究所を」


「見張っとる。あの老人と、マルクスと、アリアで回す。文句があるなら戻ってから言え」


「アリアのデザート生産は」


「あの嬢ちゃんは仕切り表まで書いとった。午前に焼き菓子二釜、午後にプリン三十六個。砂糖の残量もな。わしの字より読める」


 なら、本当に大丈夫なのだろう。妙なところで安心した。


 グスタフは肩から大きな袋を下ろした。どさり、と土が跳ねる。荷造りの紐を歯で引いて解き、中身を地面に並べていく。


 包丁が三本。研ぎ石。

 乾燥させたゼーベル、レンズ豆、塩、香辛料、油。

 それから、紙の束。新しい原稿用紙。


「お前の教科書、こっちで補遺を書きたいだろうと思ってな。紙を持ってきた」


 紙の束を見たら、笑いそうになって、うまく息が抜けなかった。

 怒鳴り込んできた男が、包丁の次に紙を差し出す。

 料理対決でわたしを潰そうとした手が、今は原稿用紙の角を揃えている。


「グスタフさん」


「うん?」


「……助かります。歓迎します」


「当たり前だ。火床を見せろ」


 グスタフはそれ以上、何も言わなかった。


 心配した、とは言わない。

 怪我はないか、とも聞かない。


 その代わり、鍋の位置を見て、薪の乾き具合を見て、灰の色を見た。前線まで来た料理人が最初にする挨拶としては、たぶんそれで正しい。


 ラルフは胸ぐらの皺を伸ばすこともせず、グスタフの荷物を覗き込んでいた。好奇心の方が痛みより勝った顔だ。


「料理長、これ、油は何ですか」


「ナラの実から絞ったもんだ。鍋にひくな。最後の仕上げに垂らせ。香りが飛ぶ」


「ナラの実……山岳の」


「お前さん、ハンスのところで習ったろう。ハンスが『リーゼに次に届けてくれ』と、わしに預けた」


 指先が止まった。


「ハンスさんが」


「お前の出立を聞きつけて、自分でベルクハイムまで降りてきたらしい。十二時間歩いた、と言うとった。膝を笑わせながらな」


「……ハンスさん」


「燻製肉も持ってきた。半年熟成のやつ。袋の底だ」


 わたしは袋の底を覗いた。

 黒ずんだ、深い色の燻製肉が、油紙に包まれて入っていた。

 匂いを嗅ぐと、ブナの煙の奥に、ターネンバウムの甘い樹脂の香りがした。

 ハンスさんが、特別な日にしか使わない樹脂の煙。


 鼻の奥が詰まった。山小屋の暗い梁と、黙って肉を吊るすハンスさんの背中が、煙と一緒に戻ってくる。

 十二時間。特別な日の肉。

 言葉にすると軽くなるので、包み紙の角を押さえるだけにした。


「グスタフさん」


「今泣くな。塩が増える」


「泣いてません」


「まな板に落とすなと言っとる」


 エプロンの裾で目元を擦った。

 裾が濡れた。


 グスタフは、ふん、と鼻を鳴らして、自分の包丁を取り出した。研ぎ石を地面に置き、ゴリ、ゴリ、と研ぎ始める。会話を切る音みたいだった。


「朝飯は」


「ハンスさんの肉、使っていいですか」


「お前さんに送られてきたんだ。お前さんが決めろ」


 わたしは肉を手に取った。指の腹に、煙の匂いが移る。


「全員に、ひと切れずつ」


「四百人だぞ」


「はい」


「二キロで?」


「一人五グラム。厚く切ったら足りません。脂のあるところはさらに半分にします。香りが行き渡るように」


「よし、わしが切る」


 グスタフは、研いだばかりの包丁を構えた。

 刃を寝かせ、脂の筋を一度だけ指で確かめる。口では荒いのに、ここだけ息を殺す。

 刃が入った。


 薄切りが一枚、また一枚、板の端に折り重なる。紙ほど頼りなくはない。香りだけは強い。



 * * *



 朝食の列が動き出したころ、ベルントが配膳台に立ち、椀の表面にはハンスさんの肉の薄切りが浮いていた。


 兵士たちは最初、葉か焦げだと思ったらしい。

 すすって、香りに気づいた。

 何人かが椀を胸元へ引き寄せる。


「これ、何だ」


「肉だろ」


「肉? 黒いぞ」


「燻製だ。北の山のやつだ」


 後ろの列から声が飛び、それがまた前へ戻ってきた。肉だ、北の肉だ、と湯気より早い。


 戻ってきた椀は、配った時より内側が明るかった。兵士たちは布切れや指で、最後の油まで拭って返してくる。

 椀を返すための列が、配膳の列とは別にできた。


「料理長、リーゼさん、ありがとう」


 声にする者もいれば、会釈だけの者もいた。

 わたしは、できるだけ顔を見た。


 全員が笑っていたわけではない。


 眠そうな顔もあった。痛みをこらえている顔もあった。肉の薄切りを最後まで舌の上に残し、飲み込むのを惜しんでいる顔もあった。


「山の肉か」


 年配の兵が、椀を返す時に低く言った。


「はい。北の山から」


「帝都の命令より遠くから来たな」


 冗談にするには、声が掠れていた。わたしは笑う代わりに椀を受け取り、縁に残った脂の輪を見た。


 ベルクハイムまで歩いたハンスさんの足。

 グスタフさんの泥だらけの裾。

 怒鳴られても鍋を離さなかったラルフさんの指。

 ベルントが配膳台で、肉の薄切りが沈まないように椀を傾けていた手つき。


 椀を洗う水はすぐ脂で濁った。指に煙の匂いが残り、袖口には灰がつく。頼もしい、などと考える前に、次の椀が肘に当たり、ベルントが洗い桶をもう一つ探しに走った。


 洗い場にまだ椀が積まれていて、日が天幕の横へ回ったころ、外で慌ただしい靴音が止まった。

 グスタフさんは包丁を置かず、刃先だけをまな板に伏せた。

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