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【135】肩の包帯

 朝の検温が終わる前に、殿下の指が寝台の縁へ掛かった。


 胸から肩へ走る包帯がずれ、シュタウブの顔色が包帯より白くなった。本人は立ち上がる気でいたらしい。片膝を立てたところで、医師の怒鳴り声が天幕の柱を震わせた。


「患者は黙って寝ていろ」


「俺は患者ではない」


「肩から胸まで斬られて寝台に縫いつけられている男を、帝国では何と呼ぶんだ」


「負傷した指揮官だ」


「では負傷した指揮官は黙って寝ていろ。命令口調で言えば満足か」


 報告書を欲しがった日があり、剣の柄を握らせろと言い出した日もあった。欲しがるものが日ごとに硬くなる。わたしはそのたび粥を温め直し、吹きこぼれかけた鍋を持ち上げながら、二人の声を聞いた。


 魔力傷の縁は、日ごとに薄くなった。最初は墨を吸わせた紙みたいに黒かったものが、焦げ跡になり、古い痣の色へ退いていく。普通なら一ヶ月かかる治癒過程が、半分以下に縮んでいるらしい。


 シュタウブは包帯を替えるたび、眉間を指で押した。


「リーゼさんの粥のせいか」


「シャルロッテのハーブのせいです」


「煮たのはお前さんだろう」


「処方したのはシャルロッテです。わたしは焦がさなかっただけで」


「そこが一番信用ならんのだがな、戦場では」


 三度目には、わたしも反論の前に匙を洗うようになった。シュタウブは笑いかけて、外から担架の音が近づくとすぐ顔を戻した。


 遠い砲声。伝令の馬。戻ってくる担架。戻ってこない椀。


 殿下の天幕は薬草と米の湯気で塞いでいたけれど、布一枚向こうで戦争は律儀に続いていた。風が吹くと、焦げた革の匂いまで入り込んでくる。



 * * *



 殿下が起きていられるのは、昼の二時間ほどだった。残りは眠っている。ときどきまぶたの下で目が動き、右手が剣を探す形になる。


 その間、わたしは天幕の隅でノートを広げた。


 第三章の補遺。

 戦場の薬膳について、と書いたところで、紙の端に薪の残りを小さく足した。

 シャルロッテが教えてくれた七段温度法を、限られた薪と煤けた鍋でどこまで再現できるか。火が弱い時、どの段を捨てるか。

 薄い粥に混ぜても効き目の落ちにくいもの。兵に先に回すべき椀と、指揮官へ残しておくしかない匙。


 血を補うハーブ。眠りを誘うハーブ。痛みを鈍らせるハーブ。

 シャルロッテのリストから、戦場で本当に要るものだけを選んでいた。効き目の強いものには丸を二つ。眠気が残るものには横線。名前の綴りを一つ間違えて、爪で紙を削る。


 文字はいつもより右へ逃げた。


 鍋の前なら、手は震えない。包丁も持てる。温度も測れる。けれど紙の上では、インクの線が急に太る。黒い池ができたところを、わたしは横線で塗り潰した。


 料理は傷を消すものではない。


 傷が消えるまで、体をこちら側に留めておくものだ。


 寝台の布が擦れた。


「何を書いている」


「教科書の続きです。字は、見ないでください」


「戦場の章か」


「忘れる前に書いておかないと。火が弱い時の七段法とか、血を見たあとでも喉を通る味とか」


「そこまで書くのか」


「書かないと、次の誰かが同じ顔をします」


 殿下は半身を起こしかけた。包帯の下で筋肉が強張り、額に汗が浮く。


「動かないでください」


「動いている方が治る」


「シュタウブに聞こえる声で言いますか」


 殿下は口を閉じた。外のほうを一度見て、負けた顔ではなく、負けを帳簿につけた顔をする。


「お前は、俺の医者か」


「料理人です」


「料理人が、患者を寝かせるのか」


「料理人は腹を満たします。寝かせるのは医者です。怒鳴るのも医者です」


 殿下は短く笑った。傷に響いて、すぐ咳になった。咳を抑えようとして失敗し、眉間の皺が深くなる。


「ほら」


「お前が笑わせた」


「責任は粥で取ります」


「なら粥を出せ」


 声に力は戻っていた。けれど唇の色はまだ薄い。強がりを置く場所が戻ってきただけで、治ったわけではない。


 わたしは椀を取った。米の湯気に、刻んだ鶏と薬草の青い匂いが混じる。


「一杯だけです」


「二杯」


「一杯半。底に鶏を沈めます」


「買収か」


「医療行為です」


 殿下は笑いかけ、今度は咳を飲み込んだ。飲み込んだせいで、目の端に涙が滲んだ。



 * * *



 ランプの油壺を替えている時、殿下が言った。


「リーゼ。包帯を、お前が替えてくれ」


「シュタウブを呼びます」


「水を取りに出た。戻るまで待つほどのことじゃない」


「ほどのことです」


「替えが遅れる方が傷に悪い、とさっき聞いた」


「都合のいいところだけ覚えないでください」


「なら、なおさらお前で頼む」


 断る言葉を探している間に、古い布の端が目に入った。血と薬草で固まり、胸のところで色が変わっている。


 わたしは新しい布の束を受け取った。最初の一巻きは指がもつれた。二巻き目で、爪の先が感覚を取り戻す。


 料理の手と同じだ、と思った。慣れれば、震えなくなる。


 けれど、慣れてはいけない。


 魚の腹を開く手つきで、人の傷に触れてはいけない。鍋の火加減を見る目だけで、殿下の顔色を量ってはいけない。仕事だ。仕事だけれど、それだけにしてしまったら、たぶん何かを間違える。


 古い包帯を外すと、乾いた薬草の匂いが立った。


 黒ずみはほとんど消えていた。肉の縁が、新しい桃色に変わっている。そこだけ、戦場の色ではなかった。


「治ってますね」


「ああ」


「シャルロッテに礼状を書きます。効能の記録も添えて」


「お前から書いてくれ。俺が書いても、あの女は数字しか読まん」


「数字は読んでくれますね」


「あれは薬草の話の時にしか、表情を緩めない」


「分かってるじゃないですか」


 新しい布を当てる。浮いたガーゼの端を指の腹で押さえた瞬間、殿下の息が止まった。


「痛みますか」


「違う」


「違う、では分かりません」


 殿下は答えなかった。喉だけが動く。


 わたしも、それ以上聞かなかった。布を巻く。きつすぎず、緩すぎず。結び目は肩の動きを邪魔しない位置に作った。


「終わりました」


「ああ」


 殿下は左肩の包帯を見下ろした。白い布の端を、右手の指で一度だけ押す。


「リーゼ」


「はい」


「お前の手は、温かい」


「鍋の前にいますから」


「そういう意味ではない」


 答えは出てこなかった。鍋なら塩を足す。布なら結び直す。言葉だけは、どうにもならない。


 大丈夫です、は喉でつかえた。怖かったです、は殿下の傷の上に置けない。好きです、は外の血の匂いに負けた。


 結局、手を出した。


 殿下の右手を握る。大きくて、固くて、剣を握り続けてきた手だった。関節の皮が厚く、親指の付け根に古い傷がある。


 その手は一度迷ったあと、わたしの手を握り返した。


 二人とも、何も言わなかった。


 外で、ラルフが薪を割っていた。三つに一つ、斧が節に負けて鈍く跳ねる。誰かが「その節は避けろ」と小声で言い、ラルフが言い返す声は聞こえなかった。


 とん、がつ、とん。


 その音を数えているうちに、殿下の指から力が抜けていった。眠ったのか、眠ったふりなのかは分からない。わたしは手を離せず、膝の上でノートの角だけが曲がっていた。


 灯芯が短くなるころ、薪ではない音がした。


「起きろ、急げ!」


 怒鳴り声が天幕の布を叩き、わたしは膝の上のノートを落として跳ね起きた。乾いていないインクが、親指に一筋ついた。

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