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【134】血の匂い

 かた、かた、と椀の縁を叩く音がした。


 眠りの中で数えた椀は、いつの間にか皿みたいに積まれていた。戻らなかった分だけ棚の隅で鳴る。空っぽのくせに、誰かの爪が縁を叩く。数え直すたび、数が合わない。


 目が覚めても、かた、という音だけは残った。


 椀ではない。


 天幕の外で馬具が鳴っていた。


 一頭ではない。四、五頭。荷車の鈍さではなく、腹まで汗で濡らして駆け込んだ馬の息が混じる。夜番の兵が声を殺し、誰かが「軍医」と言いかけて飲み込んだ。


 わたしは寝床を出た。足袋を探す指が空をつかむ。その横を、フィンさんが外へ出ていった。声はかけなかった。背中だけで、よくない知らせだと分かった。


 戻ったフィンさんは、髪の端に夜露をつけていた。いつもの穏やかな顔ではない。口を開き、いったん閉じる。


「殿下が」


 そこで止まった。


「左肩を斬られた」


「深い?」


「深い」


 それ以上は要らなかった。


 フィンさんが外套を押しつけてきた。厚い布なのに、受け取った手のひらが冷える。袖を通しながら外へ出た。


 夜の陣は、昼より広く見えた。


 焚き火は絞られ、天幕の列は黒い山の影みたいに続いている。その間を、血のついた担架が軍医の天幕へ運び込まれていく。


 担架の端から垂れた布が、地面を擦った。


 赤い。



 * * *



 軍医の天幕は、血の匂いで満ちていた。


 甘く、鉄臭く、舌の奥に粉が貼りつくような匂い。


 厨房でも血は見る。魚を捌けばまな板に赤が走るし、鶏を解けば指の節まで温かくなる。それでも、ここにあるものは違った。火も塩も酢も受けつけず、体の奥から外へ漏れ出した匂いだった。


 殿下は寝台に横たわっていた。軍服の上半分を剥がされ、左肩に厚い布を巻かれている。布の白いところを探す方が早い。


 軍医のシュタウブは、殿下の頭側に立って傷を覗き込んでいた。袖口まで赤黒い。


「リーゼさん、来たか」


「見ても、いいですか」


「倒れるなよ」


「倒れません」


 わたしは寝台の脇に膝をつく。軍医が布を剥いだ。


 肩から胸にかけて、長い裂傷が走っていた。


 骨は逸れている。けれど浅くない。脂肪と筋肉の層が開き、止まりかけた血が傷口で黒く光っている。縁だけが墨を吸った紙のようにくすんでいた。


 ただの腐り方ではない。


 匂いの底に、焦げた油みたいな苦さがある。


「普通の刃物じゃありません」


 口に出すと、シュタウブがわたしを見る。目の下に、老けた影が落ちていた。


「分かるか」


「縁です。ここまで黒くならない。あと、この匂い」


「魔力傷だ」


 シュタウブは布を持つ指に力を入れた。


「ゼルギウスのダークエッセンスに浸した刃で斬られた、と殿下は言った。普通に縫えば肉は寄る。だが治りが遅い。黒い作用が傷から広がっている」


 わたしは殿下の顔を見た。


 目を閉じている。眉間に皺。口元は固く結ばれていた。眠っている顔ではない。起きたまま、痛みを黙らせようとしている顔だ。


「殿下」


 まぶたが開いた。遅い。けれど、焦点はわたしを捕まえた。


「リーゼ」


「起こしましたね」


「起きていた」


 声がかすれている。痛みのせいか、出血のせいか。たぶん両方。


「お前の顔を見て、今、まともに起きた」


 こんな時にまで、何を言うのか。


 怒りたい。叱りたい。喉は言うことを聞かず、奥で固まった。


 殿下が口の端を上げかけ、咳き込んだ。シュタウブが素早く頭を支える。枕元の水盆が揺れた。


「殿下、しゃべらないでください」


「リーゼ」


「はい」


「飯」


「……今?」


「腹が減った」


 シュタウブが目を剥く。何か言いかけて、縫合針の皿を見たまま黙った。


 入口のフィンさんは肩を落とした。呆れたのか、安心したのか、どちらともつかない。片手だけが剣帯を握ったままだ。


 わたしの顔は勝手にゆがんだ。笑ったのか、泣きかけたのか、自分でも分からない。


「分かりました。作ります。殿下は、その間しゃべらないで」


「注文は」


「受けません」


 答えた瞬間、手だけが先に段取りを組み始めていた。



 * * *



 厨房の天幕に駆け戻った。


 夜の火床は昼より頼りない。灰の下の赤を掘り起こし、細い枝を差し込む。手が震えて、火口を落とした。拾う。指先に灰が貼りつく。二回目も湿った音だけで消えた。


 三回目で火が噛みついた。


 鍋を吊るし、水を張る。


 何を作るか。

 考えるより先に、手が棚へ伸びた。


 鶏骨。最後の一袋。


 出汁を取る時間はない。けれど湯へ投げ込むだけでは薄い。布に包み、包丁の背で叩き割る。乾いた音。昼間、ベルントに教えたばかりの骨だ。軽い骨でも、髄を割ればまだ出る。


 湯に沈めると、灰色の泡が浮いた。灰汁をすくう。その横で白身の魚を崩し入れる。米は一握りに満たない。粥と呼ぶには頼りない量。けれど、胃に落ちて、血になって、眠りへ変わればいい。


 それから、シャルロッテにもらった薬膳ハーブの袋。


 布袋の端に、彼女の細い字。


 血を補う。


 迷わず手に取った。入れる直前で止まる。


 六十度の温度帯で抽出すること。


 熱すぎれば香りが死に、低すぎれば効きが立たない。シャルロッテはそう言っていた。薬草の話になると、あの人は礼儀正しい顔のまま早口になる。


 鍋を見る。沸いている。


「馬鹿」


 自分に吐いた。


 別の小鍋を引っ張り出す。

 湯を移し、冷ます。指を入れて温度を測る。


 熱い。けれど皮膚が逃げるほどではない。


 六十度。


 シャルロッテの声が耳の奥で鳴った。


「赤子が泣かないくらいの湯です」


 ハーブを落とす。香りが立つ。


 湿った土、乾いた花、遠い修道院の棚。さっきの天幕にあった臭いと、似ても似つかない。


 その液を本鍋へ戻した。塩はひとつまみ。喉を通るぎりぎりまで薄くする。強い味はいまの殿下には刃物と変わらない。


 粥ができた。

 表面に鶏の脂が小さく散る。綺麗だと思った自分に腹が立って、椀へよそった。


 これは武器ではない。けれど、今夜わたしが持てるものは、匙と椀だけだった。



 * * *



 軍医の天幕へ戻ると、殿下は半身を起こしていた。シュタウブが支えている。


「起こすなと言ったでしょう」


「本人が聞かん。ついでに、お前を呼べと二度言った」


「三度だ」


「数えるな」


 シュタウブの声は擦れていた。額に汗。殿下だけでなく、軍医も針と血と夜に削られている。


 わたしは椀を持ったまま寝台の脇へ膝をつく。


 匙で粥をすくう。湯気が上がる。血の臭いの中で、その湯気だけが厨房の隅みたいだった。


「熱いです」


「構わん」


「構います。舌まで怪我人にしないでください」


 息を吹きかけ、殿下の口へ近づける。


 殿下は飲み込んだ。


 一口。


 喉が動く。


 目を閉じる。痛みだけではない、とわたしは思った。決めつける余裕はない。


「……これは」


「シャルロッテのハーブです。温度は守りました」


「……ああ」


 二口目で、殿下の肩から力が抜けかける。すぐ痛みに引き戻され、眉が寄った。三口目。黒ずんだ傷の縁が変わるわけではない。それでも、天幕の中の誰かが息を吸い直した。


 殿下が手を伸ばす。椀を自分で持とうとする。指先が震えていた。


「殿下、こぼします」


「こぼさん」


「今の手で?」


 返事の代わりに、殿下は椀の縁をつかんだ。強情な指。わたしは底を支えたまま離さない。


「半分だけです」


「全部だ」


「半分」


 シュタウブが短く言った。「半分」


 軍医の命令には、殿下も目だけで文句を言った。


 結局、殿下は両手で椀を受け取った。わたしは下に布を添える。震えながら、飲む。途中で一度止まり、息を整え、それでも飲み干した。


 空の底を見て、殿下は息を吐いた。安堵というより、まだ足りないという顔。


「リーゼ」


「はい」


「おかわりを」


「あります」


 返事だけはすぐ出た。


 椀を受け取る手は、今度は震えていなかった。


 天幕を出た途端、膝が笑った。転びかけ、入口の柱をつかむ。木のささくれが手のひらに刺さる。


 フィンさんがこちらを見た。


「リーゼさん」


「おかわりです」


 それだけで、フィンさんは深く息を吐いた。祈りの言葉ではない。ただの息。その方が、今はありがたかった。


 わたしは厨房へ走る。


 頬に何か落ちた。涙か、夜露か、火の粉の名残か。


 確かめる暇はない。鍋の火が消えたら困る。


 火床はまだ赤い。


 背後で軍医の天幕の布がまた跳ね上がり、低い報告の声がした。水、針、替えの布。


 椀の縁を握り直す。熱が指に食い込んだ。

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