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132/151

【132】帰ってこない椀

 炊き出し場の脇に、空の椀を積む木棚がある。


 朝に配った椀。夜に戻る椀。差し引きで、その日帰ってこなかった兵の数が出る。


 誰かが決めたわけではない。三日目の夜、ラルフが戻ってきた椀を一枚ずつ布で拭きながら、手を止めずにぼそりと言った。


「昨日より、十二枚少ないな」


 わたしはラルフの指先を見て、それから棚へ目をやった。棚の横腹には、朝に配った椀の数を書いた板が立てかけてある。三百二十枚。戻ってきた椀を積み直すと、三百八枚で手が止まった。


 その夜から、戻りを数えた。

 ラルフはやめておけと言った。聞かなかった。


 数えなければ、ヘルマンの椀がどこへ消えたのか、誰も口にしなくなる。


 ヘルマンの椀は、五日前から戻らない。

 ベンダリンの椀は、二日前から。

 名前を覚え損ねた若い兵の椀は、昨日から。



 * * *



「リーゼさん」


 棚の影から声がかかった。振り向くと、見知らぬ兵が立っていた。背は低いが肩が広く、髪は短く刈ってある。十八か、十九くらい。


「俺、ベルント・カウフマン。第三歩兵隊」


「はい」


「あんたに、礼が言いたくて」


 ベルントは右手に椀を持っていた。湯気は立っていない。底まで飲み干した後らしい。


「礼って」


「三日前のスープ。あれ、俺、覚えてる」


 ベルントは椀の縁を親指でなぞった。中身は空なのに、まだ熱いものみたいに扱っていた。


「俺、攻撃の三日前、足の骨折って寝てた。起き上がれねえし、誰も来ねえし、腹は減るし。ああ、ここで死ぬんだなって思ってた」


「うん」


「そしたら、誰かが天幕の入口にこれ置いていった」


 彼は椀を持ち上げた。


「温かかった。冷めてなかった。匂いがして、起き上がろうとしたら、起き上がれた」


 三日前の天幕の列を思い出した。イルゼに「動けない兵士に、配って回ってくれ」と頼まれた。十数の天幕を回った。入口で声を掛け、返事のない天幕には、椀を置いていった。


「あれ、リーゼさんなんでしょ」


「うん」


「で、あの足、四日で立てるようになった。普通、二週間かかるって衛生兵が言ってた」


 ベルントは笑った。歯並びの悪い笑いだった。


「あんたのスープ、何か入ってるよな」


「何も入れてないよ。鶏骨と、干し茸と、塩と」


「いや、入ってる。普通の飯では、骨はくっつかない」


 わたしは答えず、布巾を絞った。水が手首を伝って、袖口に染みた。


「ベルントさん、その椀、返してくれる?」


「あ、そうだった。これ、返しに来たんだった」


 彼は椀を差し出した。木の縁に、彼の指の跡が残っていた。汗で湿っていた。


 わたしは椀を棚に置いた。今日の戻り、八十九枚目。



 * * *



「リーゼさん」


「うん」


「俺、料理、覚えたい」


 その言葉で、わたしの手が止まった。


「料理?」


「うん。あんたみたいに、誰かを治す料理。覚えたい」


 ベルントは笑わなかった。冗談で言っている顔ではなかった。


「あんた、忙しいの分かってる。教えてくれって言ってるんじゃない。ただ、傍で見てたいんだ。手伝いながら」


「歩兵隊の仕事は」


「足、もう治った。でも、当面は炊き出しの後方支援だって、隊長が言ってる」


「隊長、誰?」


「フリードリヒ将軍」


 わたしは濡れた手を布巾で包んだまま、その名を考えた。フリードリヒ将軍。殿下の叔父。食に無関心な合理主義者だと、ソフィアさまの報告書にあった。


 その将軍が、炊き出し場へ兵を一人回した。

 大きな意図を読むほどのことではない。けれど、見ていなければ回さない。


「分かった。明日から、四時に起きられる?」


「四時」


「夜明け前に仕込みを始める」


「起きられる」


「じゃあ、明日」


 ベルントは敬礼した。軍隊式の固い敬礼ではない。子供が手を額に当てるような、ぎこちない敬礼だった。


 彼が去った後、わたしは棚の前に戻った。


 彼の椀は、わたしの手のひらの中で、まだ温かかった。

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