【131】煮こぼれ
「リーゼさん、こぼれてる」
軍属料理人のラルフが、わたしの脇から腕を差し入れ、左の鍋の蓋を親指で押し上げた。
白い泡が鍋縁を越え、灰へ落ちる。じゅう、と焦げた匂いがはねた。
「ごめん。見てなかった」
「見てないって顔じゃないよ。北、見てた」
ラルフは責める顔もせず、蓋を斜めに噛ませた。蒸気が白く抜け、暴れていた泡が鍋の内側へ戻っていく。
北の丘の方角から、こぉん、こぉん、と低い音が切れずに来ていた。鐘ではない。太鼓でもない。金属が、金属を噛む音。
三日前、イルゼが言っていた。剣と剣がぶつかるとこう響く。戦場で人が死ぬときの音だ、と。
わたしは右の鍋へ魚醤を垂らした。三滴。指先がこわばって、四滴目がぽたりと落ちた。……まあいい。塩は足さない。
背後から、パンの焼ける匂いが押してくる。薬膳ハーブを練り込んだ生地。シャルロッテのレシピを軍用に削ったものだから香りは浅い。それでも、効き目はある。
「ラルフ」
「うん」
「あの音、何時間」
「七時間目」
わたしは木の匙を握り直し、鍋肌をがり、とこすった。底の干し茸が浮き、褐色の汁が渦を巻く。
七時間。丘の向こうで、その間ずっと、誰かが誰かを斬っている。
* * *
最初の負傷者が運ばれてきたのは、音が止んだあとだった。
担架が四つ。歩ける兵士たちは互いの肩を借り、二十人ほどがよろけながら続いた。
「リーゼさん、椀!」
イルゼの声が布を裂くみたいに飛んだ。
わたしは大鍋の前から走り、椀を積んだ木の盆を胸に抱え込む。盆の角が鎖骨に当たった。担架の横へ膝をつく。
最初の担架には、若い兵士が寝かされていた。腹に巻かれた布は黒く染まり、端から湿った色が広がっている。目は開いていた。わたしを見ているのか、空を見ているのか、焦点がつかめない。
「お水……」
兵士の唇だけが動いた。乾いて白く割れていた。
「水じゃない。こっち」
わたしは椀にスープを汲み、彼の口元へ寄せた。匙は使わない。椀の縁を直接当てる。匙一杯ずつでは間に合わない。
彼が一口含む。喉仏が、ひとつ上下した。
「……あったかい」
「あと一口」
彼は飲んだ。三口で、まぶたが落ちた。
イルゼの手がわたしの肩を打った。
「次」
「この子は」
「衛生兵。行って」
わたしは振り向きざま、次の担架へ走った。
隣の担架の兵は、呼んでも動かなかった。次の兵士には腕がなく、包帯の端から血が垂れて土を濡らしていた。
最後の担架の男が、わたしの目を見て笑った。
「姐さん、約束したろ」
その兵士の顔を、わたしは知っていた。出陣の朝、塩むすびを食べて「帰ったらおかわりくれ」と言った男。名前は、ヘルマン。偵察隊の。
「ヘルマンさん」
「ちゃんと、帰ってきたぜ」
彼の右の太ももに、長い裂傷が開いていた。布で固く縛ってあるのに、赤黒い血がじわじわ滲む。それでも彼は笑った。歯の隙間まで血が入っていた。
「おかわり、くれよ」
「持ってきます」
わたしは大鍋へ走り、椀を満たして戻った。
ヘルマンは椀を受け取った。指が震え、汁が半分、土へ跳ねた。
「すまん」
「いい。飲んで」
彼は飲んだ。最後の一口を喉へ落とし、椀を地面に置く。
「うまかった」
目を閉じた。
イルゼが駆け寄り、ヘルマンの首筋へ指を当てた。唇を結んだまま待つ。やがて、首だけを横に振った。
* * *
その夜、わたしは天幕の隅で、椀を磨いていた。
ヘルマンが最後に使った椀。木の縁には、彼の歯型が薄く残っている。
ネルが、わたしの膝に飛び乗ってきた。何も言わない。ただ丸くなって、ごろ、と喉を鳴らした。毛のぬくみが腿に沈む。
外で、また太鼓に似た音がしていた。今度は遠く、間が長い。あとで葬送の太鼓だと知った。運ばれてこなかった兵士たちの名前が、あの音の合間に読み上げられていた。
わたしは椀を磨き続けた。
布を替えても、手に力を入れても、歯型は消えなかった。




