【130】開戦
翌朝、ゼルギウスの主力が来た。
角笛で跳ね起きた。一つではない。陣の東で、西で、たたみかけるように鳴っている。
警戒ではない。
戦闘開始の音だ。
天幕の布を押し上げて外へ出ると、北の平野に黒い筋が引かれていた。
ゼルギウスの軍旗だった。
地平線に沿って横へ横へと伸び、昨日見た数では、とても足りない。主力が、前面に出てきたのだ。
「リーゼ」
息を切らしたフィンさんが駆けてきた。
「殿下からの伝言です。厨房を後方三キロの地点まで下げてください。戦闘が始まります」
「分かりました」
返事をするなり、わたしは料理人たちの方へ向き直った。鍋を布でくるみ、袋口を縛る。麦、豆、干し肉、薬草の箱を荷車へ積ませた。
車輪が軋む。誰かが落としかけた銅鍋を、別の誰かが肘で受け止めた。
後方へ移る途中、丘の肩で足が止まった。
帝国軍が稜線に並んでいた。三千の兵士が槍を揃え、北を向く。朝日を受けた甲冑がぎらりと返し、槍先の光が薄い壁みたいに重なった。
その中央に、殿下がいた。
黒い馬の上で剣を抜き、兵士たちの一番前に立っている。風に乱れた黒髪を、朝日が縁取っていた。
小さい。遠い。
それでも、すぐに分かった。
あの人が、殿下だ。
抱えた鍋の縁が、腕に食い込んだ。わたしはそのまま、動けなかった。
「リーゼ。行くぞ」
ネルが肩の上で短く言った。
「はい」
喉の奥が張りついた。返事を飲み込み直して、わたしは後方へ歩き出した。
背後で、角笛がもう一度鳴る。
続いて、地面が低く唸った。何千もの足が、同時に大地を踏みしめる音だった。
戦が始まった。
振り返らない。
前を見る。
鍋を抱え、食材を背負い、料理人として歩く。
わたしの戦場は、あの稜線ではない。後方の厨房だ。戻ってくる兵士たちの手に、湯気の立つ器を渡す。そのために火を起こし続ける。
それが、わたしの戦い方だ。
* * *
後方の仮設厨房で、大鍋を炉に据えた。
スープを作る。三千人分。戦闘が長引けば、足りなくなるかもしれない。
帰ってくる兵士がいる。帰ってこない兵士もいる。怪我をした兵士、心が壊れかけた兵士が運ばれてくるかもしれない。
温かいものは、切らさない。
薪が爆ぜ、鍋底が鳴った。煮立ちはじめたスープから、湯気がまっすぐ立ち上る。灰色の空に、白くほどけていく。
遠くで戦闘の音がする。金属がぶつかる硬い音。怒号。馬の嘶き。
そのたび、柄杓を握る指に力が入った。
わたしは鍋の中を見つめた。
スープの表面に、金色の光が浮かんでいる。
エッセンス。
食材を無駄にしない。食べる人の顔を思い出す。生きて帰ってきてほしいと、火の前で願う。
それらが、鍋の中で湯気になっていた。
ネルはわたしの肩で、目を閉じている。鼻先だけが、ぴくりと動いた。
「リーゼ。いい匂いだ」
「ネル」
「スープの匂いは、百年前と変わらんな」
「……変わらないよ」
「ああ。温かいものは、いつの時代も変わらん」
わたしは鍋の蓋を取った。
湯気がどっと上がり、まつげと頬を湿らせる。白い湯気は、灰色の戦場の空へ細く伸びていった。
旅で学んだものを、手が覚えている。
港の魚醤は塩気を丸くする。草原の馬乳酒は、肉の重さをほどく。山の燻製を刻めば香りが残り、修道院の薬草は喉の奥をすっと通る。
そこへ、わたし自身の想いを足す。
生きろ。
帰ってこい。
温かいものが、ここにある。
木の匙を鍋底に差し入れ、焦げつかないよう底から大きく返した。




