帰宅
郁美は「きっと大丈夫」と背中を押してくれた。
だけど、俺にはどうしてもまだ桜の気持ちに確信が持てないでいた。
文化祭でのすれ違い、そして昨夜届いたあのメッセージの『送信取り消し』。
桜の心は本当に、完全にあの関谷のところへ行ってしまったのだろうか。
どれだけ頭を悩ませても不安と胸のモヤモヤは消えず、結局のところ、答えは明日直接確かめるしかないのだと自分に言い聞かせるしかなかった。
重い溜息とともに湯船を上がり、髪を乾かしてリビングへと戻る。
すると、そこには整頓されたバッグの横で、自分の荷物を丁寧にまとめている郁美の姿があった。
明日着ていく服や小物を綺麗に畳み、静かに身支度を整えている。
「ん? どうした?」
俺が声をかけると、郁美はハッと振り返り、少し申し訳なさそうな、寂しげな笑みを浮かべた。
「あっ……うん……明日ここを出るのと同時にね、一回、実家に帰ろうと思って……」
「え……ま、まだここにいていいんだぞ?」
あまりに唐突な告白に、俺の頭は一瞬で混乱した。
郁美が元の自分を取り戻したとはいえ、彼女があの家に戻るのはまだ危険すぎるんじゃないかと思ったからだ。
「うん……ありがとう。でもね、お母さんから帰ってきてほしいって連絡があって……」
「でも……もしあの義父が帰ってきてたら、ヤバいんじゃないのか?」
思わず語気を強めて心配する俺に、郁美は首を静かに横に振った。
「お義父さんは、帰ってきてないみたい。
会社も連絡が取れなくなってるみたいだから……もしかしたら、まだあの獄門の中にいるのかも。
それに、お母さんをいつまでも一人にしておくわけにもいかないし…」
「そ……そっか……」
郁美のどこか寂しげで、けれど一本芯の通った強い瞳を見て、俺はそれ以上強く引き止める言葉を失ってしまった。
——そして俺は、自分の胸の奥にあった勝手な想いにハッとさせられた。
俺はどこかで、郁美とこうして二人で過ごす暖かな生活が、ずっと続けばいいのにと願ってしまっていたのだ。
朝起きて言葉を交わし、下見で一緒に笑い合い、家に帰れば彼女が待っている。
昨夜までの悲劇が嘘のように穏やかなこの空間とぬくもりに、俺はいつの間にか居心地の良さを感じていた。
けれど、高校二年生の女子が他の男の家にいつまでも身を寄せ続けるなんて、どう考えてもおかしい。
母親が心配して呼び戻すのも当然のことだし、郁美が自分の家族に向き合おうとしているのを、俺が引き止める権利なんてあるはずもなかった。
「そうだな……うん。でも、また何か辛いこととか問題があったら、遠慮しないでいつでも来ていいからな」
口をついて出たのは、あまりにも不器用で、けれど俺の素直な本音だった。




