毒薬
観客が残酷なリアリティに酔いしれる中、俺の視界の端で、ジュリエットの衣装を着た郁美が、満面の笑みを浮かべて舞台へと足を踏み出すのが見えた。
「あぁ、私の愛しい人……!」
鈴を転がすような、甘く澄んだ声が舞台に響いた。
眩いスポットライトの中へ、純白のドレスを身に纏った郁美が軽やかに駆け込んでくる。
彼女は俺の胸に飛び込むと、その細い腕を俺の背中にしっかりと回し、満面の笑みで見上げてきた。
観客の目には、運命の恋人たちの美しい再会に映っただろう。
だが、その光景は、限界まで張り詰めていた桜の心を完全に砕け散らせる最後の決定打となった。
本来の台本なら、ロザラインはここで絶望に暮れたまま、舞台の隅で暗転まで泣き崩れているはずだった。
しかし――俺と郁美が固く抱き合う姿を目の当たりにした瞬間、桜はビクッと痙攣するように肩を震わせた。
「……っ」
桜は震える両足でふらふらと立ち上がると、台本を完全に無視し、俺たちから逃げるように背を向けた。
そして、怪我をした足を引きずりながら、よろけるような足取りで舞台袖の暗がりへと走り出してしまった。
(待て、どこに行くんだ、桜……!)
闇の中へ消えていく幼馴染の細い背中。
今すぐその後を追いかけたい。
だが、俺の足は舞台の床に太い杭で打ち付けられたように動かない。
今ここで郁美を置いて桜を追いかければ、これまでの地獄が、自らの手で桜の心をへし折ったこの最悪の仕打ちが、すべて無駄になる。
俺は血が滲むほど強く拳を握り締め、逃げ去る桜の微かな足音を、ただ黙って聞き流すことしかできなかった。
劇はそのまま、一気にクライマックスへと突入していく。
郁美によって改悪された狂気の台本。
その終盤には、ロミオとジュリエットが永遠の愛を証明するために『毒薬』を呷るというシーンが用意されていた。
「これで、私たちは永遠に一緒よ……」
郁美が、うっとりとした、熱を帯びた瞳で俺を見つめる。
彼女を縛る呪いが、俺という存在を独占できた喜びに打ち震え、その幸福度がまさに頂点へと達しようとしていた。
俺は衣装の懐から、小さな『毒薬の小瓶』を取り出した。
小道具の瓶ではない。
開演前、俺が密かにすり替えておいた本物――すり潰した彼岸花の汁が入った小瓶だ。
スポットライトを一身に浴びながら、俺は観客に向かって毒薬を呷る迫真の演技を打った。
(……っ!)
舌を刺すような強烈な渋みと、むせ返るような青臭さが口の中に広がる。
だが、俺はそれを決して飲み込まず、舌の下にそっと留めた。
「あぁ、ロミオ……!」
俺が毒を飲んだ(フリをした)のを見て、郁美が恍惚とした表情で駆け寄ってくる。
俺は飛び込んできた郁美の体を力強く抱き寄せた。




