開幕
納得しているわけじゃない。
それでも、これ以上引き留める言葉を探せないでいる顔だった。
しばらくの沈黙の後、木村はゆっくりと手を離した。
「……分かった。でも達也」
背中に、木村の声が刺さった。
「後で絶対に、ちゃんと説明しろよ」
俺は振り返らずに頷いた。
幕が上がるまで、あとわずかだった。
ブザーの音が体育館に鳴り響き、重い暗幕がゆっくりと上がっていく。
客席を埋め尽くす生徒たちのざわめきが、舞台を照らす強烈なスポットライトの光とともに、波が引くように静まり返った。
『ロミオとジュリエット』の幕が開いた。
急遽代役として舞台に立った俺だったが、家で幾度となく郁美の練習に付き合わされていたおかげで、セリフは嫌でも頭に入っていた。
スポットライトの熱を肌に感じながら、俺はまるで自分の体ではないような奇妙な浮遊感の中で、ロミオとしての立ち回りをこなしていく。
客席からの視線が突き刺さるが、俺の意識の半分は、常に自分のポケットの中にある『小瓶』の硬い感触に向けられていた。
劇は中盤へと差し掛かっていた。
舞台の中央、薄暗い照明の中。
俺の前に、一人の少女がふらふらと歩み出てくる。
ロミオの元恋人である、ロザライン役。
腕と脚に痛々しい包帯を巻き、足を引きずりながら現れた桜の姿に、客席から「おおっ……」と息を呑むような声が漏れた。
クラスでの立場を完全に失い、孤立無援の悪者として扱われている桜だが、それでも彼女が学年一の美女であるという事実に変わりはない。
むしろ、作り物ではない本物の悲しみと絶望によって生み出されたその『異様なほどの儚さ』は、観客たちの目を完全に釘付けにしていた。
誰もが、その痛ましいほどの美しさに魅了され、息を潜めている。
「ロミオ……待って。行かないで……っ」
桜が、俺の足元にすがりつくように崩れ落ちた。
俺の衣装の裾を握りしめるその手は、小刻みに、ひどく震えていた。
台本通りのセリフ。
だが、俺を見上げる桜の瞳には、役を演じる余裕など微塵もない。
そこにいるのは、ただただ幼馴染の少年に見捨てられ、心細さで限界を迎えている『宮野桜』そのものだった。
「私を……見捨てないで……っ」
かすれ、涙に濡れたその懇願は、間違いなく俺自身に向けられた本気のSOSのように思えた。
胸の奥が、ギリッと軋むような音を立てる。
だが――今の俺に、もう迷いはない。
この震える肩を抱きしめてやりたいという甘い感情は、すでに昨日、昇降口で桜を見捨てた時に切り捨ててきた。
俺は今日、郁美を元の姿に戻し、この狂った呪いの日常を終わらせる。
そのためなら、俺はどんな大悪党にでもなる。
その覚悟は、とっくに完了していた。




