4 転機
それからほどなくして、若い侍女は、石鹸と、本を五冊、差し入れてくれた。
「図書室には、旦那様も、大旦那様達も、あまり足を運ばれませんので」
石鹸については、なんと侍女の給金で買ったものだということだ。
ハロルド達のための在庫の石鹸を渡すことは許されなかったらしい。
「あの、本当にいいのかしら。こんな、大切なものを……」
「……女性なのに、石鹸も無いなんて、ひどいです」
悔しそうに唇をかむ侍女に、クラリスは思わず頬を緩める。
そして、うまく笑えない自分に気が付いた。
顔の筋肉が、動かないのだ。
そのことを、少し寂しく思いながら、クラリスは深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。大切に使います」
「お、奥様! 奥様が、使用人に頭を下げるなんて」
「私は、ここを出ていく身ですから」
そう告げるクラリスに、侍女は尋ねてくる。
「どうして奥様は、旦那様と結婚なさったのですか?」
どうしてだろう。
そのときふと、思うことがあって、それを侍女に告げてみた。
すると、侍女はその場で泣き出してしまった。
「ごめんなさい。私、ひどいことを言ったのかしら」
「違います。違うんです。……旦那様は、大馬鹿者です。最低のぼんくら男です」
そう言って、侍女はずっと涙をこぼしていた。
それが、クラリスにはとても不思議で、とても温かく感じた。
◆
侍女は、リーゼリットと名乗った。
茶髪で、緑色の目をした、リスのような愛らしさのある若い女性である。
彼女が現れてからというもの、クラリスの生活に光が差すようだった。
なんと、週に一度、図書室の本を五冊、差し入れてくれたのである。
「本当に、いいの?」
「図書室にはあんまり誰も立ち入らないので、大丈夫です。掃除を買って出てるんですよ」
「そう……無理はしないでね」
「そもそも、この家の奥様がこの家の本を読んで、なにが悪いんです? 言われたのは、部屋から出るなっていう、それだけですよね?」
片目をつぶってウィンクするリーゼリットに、クラリスはほほ笑む。
「クラリス様は、もっと笑ったほうがいいです」
「そうかしら」
「クラリス様が笑うと、なんだか花が開いたみたいに、その場が明るくなるんですよ」
そう言って笑うリーゼリットを見て、クラリスは、それはリーゼリットのことではないかと思った。
彼女が居ると、とても気持ちが軽くなる。
よく笑い、よくしゃべって、いつも楽しそうで、太陽のようだ。
名前もリサリーに似ていて、それがなんだか、クラリスにはとても嬉しかった。
「名前が似ていると、嬉しいんですか?」
不思議な奥様、と笑う彼女は、とても愛らしくて、まぶしい。
◆
しかし、そんな彼女との生活は長くは続かなかった。
彼女と出会って二ヶ月が経った頃、事件が起きた。
リーゼリットがクラリスの世話を焼いていることが、ハロルドにバレたのである。
そのことを告げに来たのは、家令だった。
彼は、大きく扉をノックし、女性が居る部屋だと言うのに、了承を得ずに音を立てて扉を開けたので、椅子に座って本を読んでいたクラリスは、立ち上がることもままならなかった。
八ヶ月ぶりに顔を見せた家令は、怒気をはらんでいた。
しかし、本を机に置いて、慌ててゆっくりと立ち上がったクラリスを見て、呆気にとられた顔で、その場で立ち尽くす。
彼があまりにも呆然としていたので、クラリスはどうしたものかと思案した後、口を開いた。
「……どうかしましたか?」
ハッとした家令は、それでも、言葉に迷っている様子で目をさまよわせる。
そして、意を決した様子で、クラリスを見た。
「図書室の本を、勝手に読んでいると」
目を見開いたクラリスは、深々と頭を下げる。
「そのとおりです。出過ぎた真似をして、申し訳ありません」
「いえ、その……」
家令は迷った末、といった様子で続きを言葉にする。
「リーゼリットは、解雇しました」
「そんな!」
「……伯爵閣下の命ですので」
伯爵家の侍女を解雇になったら、次にリーゼリットを侍女として受け入れてくれる貴族の家はなくなってしまう。
紹介状もなしに、上位貴族の屋敷の侍女を辞めることになるというのは、そういうことだ。
「わ、私にできることはありますか。一週間、食事を抜いて構いません」
「こ、これ以上は、その」
「この部屋を明け渡します。屋根があれば十分です。その、小屋とか、屋根裏とかを、お借りできれば」
「……リーゼリットには、紹介状を書きます」
なぜかはわからないが、家令はそう、小さく呟いた。
クラリスは不思議に思ったけれども、下手に詮索して、気持ちを変えられてしまうのはよくない。
「本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げるクラリスに、家令は、いえ、とだけ呟いて、退出した。
彼は、室内に置いてある客人用の五冊の本と、リーゼリットが置いてくれた今週の五冊の本を、クラリスから取り上げなかった。
◆
そして再び、クラリスの部屋には、誰も来なくなった。
食事が用意される頻度も、段々と下がっていった。
クラリスは、できるだけ寝台の上に居て、身動きしないで生活をするようになった。
そして、与えられた食事を、一度ではなく、小分けに食べるようにして、息をひそめるようにして生活をした。
けれども、そんな生活には、限界がやってくる。
その日は、一日、食事が運ばれてこなかった日だった。
その前の日は、食事が運ばれてきたけれども、さらにその前は、二日、食事が運ばれてこなかった。
寝台の上、一か月前に水で洗っただけのシーツに寝そべってクラリスは、右手に握った懐炉を、ただ見つめていた。
クラリスが小さな頃から、一緒に過ごしてきた懐炉だ。
(潮時、かしら)
指を動かすのも嫌で、クラリスはその場から動かない。
もう、懐炉に籠める魔力もない。
季節は冬で、外はしんしんと雪が降り積もっている。
少しずつ貯めていた固いパンのかけらが、引き出しにある。
最後の力を振り絞るには、十分な量だ。
クラリスは、自分の死に方を決めていた。
懐炉にすべての魔力を籠めて、力を使い果たすのだ。
いつも、この魔法の懐炉には、カツカツの魔力しか籠めたことがなかった。
芳醇な魔力を籠めたとき、どのぐらい温かくなるのか、クラリスはそれを確かめたいと思っていた。
きっと、そのときが来たのだ。
この懐炉と、別れる日が来た。
そう思っていたクラリスの目に映るのは、かすれた不思議な文字だった。
そして、その文字の後に刻まれている、名前。
——アルバート。
しばらくその名前を見ていたクラリスは、段々と、自分の中に、灯がともっていくのを感じた。
この、アルバートという人は、どういう人なんだろう。
それは、幼い頃からずっと、心に住みついていた疑問だ。
亡母から引き継いで、雨の日も雪の日も共に歩んできたのに、壊れることなくそこに居てくれた、大切なものに刻まれた名前。
ここで止まったら、一生、この名前の人に会うことはできなくなる。
(本当に、それでいいの?)
懐炉を持つ手に、力が入る。
力を入れることが、できた。
心は、体を動かすことができるのだ。
ここまで、誰かに言われるがままに生きてきた。
それが誰かに望まれることだったから。
クラリスを必要とする声を、クラリスはずっと欲していて、だから彼女は、ここに居るのだ。
そして、誰からも求められなくなって初めて、彼女は自分の声を聞いたような気がした。
(誰も、私を気に留めない)
それは、とても悲しいことだと思っていた。
けれども、今のクラリスにとって、それはとても素晴らしいことだった。
誰もクラリスを止めない。
クラリスがやりたいことを、遮る者はいないのだ。
乾いた水色の瞳に、光が宿る。
『お嬢様、強く生きてください。いつかきっと、幸せに笑ってみせると、このリサリーに約束してくださいませ』
『クラリス様は、もっと笑ったほうがいいです』
そう言ってくれた、二人の顔が思い浮かぶ。
きっと二人は、知っていたのだ。
自分のために生きたいと思うことが、こんなにも世界を色鮮やかにしてくれるということを。
(お母さまは、王都で懐炉を手に入れたと言っていた……)
王都に行きたい。
誰がクラリスを必要としていなくてもいい。
今、クラリスが動くことを、彼女自身が必要としている。
クラリスは、引き出しに手を伸ばした。
固いパンのかけらを、いくつか口に含み、唾液で溶かしながら、なんとか飲み込む。
そうして、少し時間が経ち、ほんの少し体力を回復させたところで、水を飲み、追加のパンのかけらを頬張った。
(私は今、なにを持っている? ここを出るために必要なもの。王都に行くために、役に立つもの……)
クラリスは、クローゼットを開いて、服を確認する。
ここに来た時期は、冬だった。
だから、そこには、平民仕様ではあるが、外出用のコートとワンピースが残っている。
室内着の薄いワンピース二着は、この九ヶ月着まわしていたので、ぼろきれのようになってしまったけれど、冬の室外に出ていく用の服はあるのだ。
旅行鞄も、ハンガーに下げてある。
小さな、ともすればちょっと出かけるための鞄に見えるくらいの大きさであることが、今はありがたい。
鞄の中には、ここに来るまでの路銀も残っていた。
少ないけれども、平民の水準であれば、一週間分の生活をするには十分な金額だ。
これはクラリスが、あと三ヶ月後に、ここを出ていくために残していたものだ。
物は揃っている。
あとは、体力が持つかどうか、それだけ。
(パンも食べた。水も飲んだわ。だから、大丈夫)
懐炉に一気に力を籠めるために、体力を残していたのが功を奏した。
今なら、クラリスは動くことができる。
そしてさらに幸運なことに、クラリスが嫁いだ先は、伯爵家だ。
屋敷は当然ながら、ハワード伯爵領の領都の中にある。
そして、伯爵領の領都は規模が大きく、人が多くて——短期間であれば、クラリスが紛れることも、きっとできるはず。
クラリスは、少ない荷物を鞄に詰めて、九ヶ月ぶりに、外出用のワンピースとコートに袖を通した。
引き出しに入れっぱなしであった結婚証明書を鞄にしまい、ブーツを履き、ふらつきながらも、音をたてないように、ゆっくりと部屋の扉を開く。
ここで誰かに見つかってしまっては、元も子もない。
そして不思議なことに、そのときのクラリスは、とても神経が研ぎ澄まされていて、周囲の気配や息遣いが手に取るようにわかった。
侍女達の衣擦れの音。
執事達の話す声、シェフ達の料理をする音、庭師が草木から雪を払う様子、そして、警備の兵士達の靴音まで、すべてが感じ取れる。
屋敷の裏門まで来たクラリスは、門番の兵士が居ることに気が付き、どうしたものかと唇をかんだ。
伯爵家の屋敷の門の前から、兵士が居なくなることは、きっとない。
ただ、休憩のための交代はするはずだ。
クラリスは、木陰に身を潜めて、鞄に入れていた婚姻証明書を取り出す。
それを四つ折りにして、胸当ての中にしまうと、門兵達が交代をするのを待ち、交代して間もないときに、裏門の門兵達の前に姿を現した。
「!? お前、そこでなにをしている!」
「あ、あの。ここって、グランさんのお家ですよね?」
「ここは伯爵家の屋敷だ! お前のような平民が来るところではない!」
「えっ。す、すみません。私、間違ってしまったみたいで……」
二人の門兵は、クラリスの格好を見た後、鞄をよこせと言ってきた。
中に入っているのは、布に包まれた固いパンのかけらと多少の路銀、そして、平民服だけだ。
「……」
一人の兵士が、声をかけることなく、クラリスのコートのポケットに手を入れてきた。
息が止まるかと思ったけれども、クラリスは声を発することなく耐える。
兵士は両方のポケットをまさぐり、なにも入っていないことを知った後、クラリスの首から下げている金色の輝きに目を細めた。
「その、下げているものは」
クラリスは、首に下げたまま、服の下から金色の懐炉を取り出す。
それをまじまじと見た門兵は、長い息を吐いた。
「ただの懐炉か。お前には使えないだろうに」
「フィリス、お前、これがなにかわかるのか?」
「魔法はかじっただけだが、文字くらいは読める。魔法文字で懐炉と書いてあるんだ」
「えっ。それ、この女が魔法使いだってことか!? 魔法を使って、屋敷になにか……」
「いや、それはない。こんなガリガリの状態で魔法を使ったら、人は死ぬ」
「あ、そういうもんなの?」
肩の力を抜いた同僚を横目に、フィリスと呼ばれた兵士は、ようやく表情をやわらげた。
「ここは間違えて入っていい場所じゃない。この街で暮らすなら、以後気をつけろ」
「はい。申し訳ありません」
「フィリス、いいのか? 一応報告しなくても」
「裏門は人の出入りが激しいから、見つからずに長時間うろうろできる場所じゃないだろ。この女はなにも持ってないし、ただ迷い込んだだけさ」
「あー、まあそうか。ったく、交代前の奴らはなにをしてたんだか。お前も気をつけろよ!」
「はい、すみませんでした」
さっさと行けと目線で言われ、クラリスは深々と頭を下げる。
そして、門の外に出て、ふらふらと街道を歩いた。
息が白い。
空は曇っている。
けれども、雲の隙間から差す日の光が、こんなにも明るい。
(私、王都に行く。きっと、行ってみせる)
そして、アルバートを探すのだ。
もしかしたら、名前の主は、もう死んでいるかもしれない。
それでも、探し出してみせる。
こうして、クラリスはハワード伯爵家を出た。
そしてなんと、クラリスが居なくなったことに、ハロルド自身はおろか、ハワード伯爵家の使用人達ですら、月単位で気が付かなかったのである。








