3 どうやら結婚はするらしい
「そんな……お前が、クラッセン子爵令嬢……だと?」
そこにあるのは、八割の衝撃と、一割の焦り、五分の悔恨と——五分の苛立ち。
それもそうかと、クラリスは事実をありのままに受け止める。
本来、この男が妻として呼びたいと思っていたのは、クラリスの義妹クリスティナなのだから。
愛しいクリスティナが来る日を、今か今かと待っていた結果、やってきたのがクラリスだ。
枝毛だらけのホワイトブロンドの髪、やせ細った貧相な体に、荒れた手指。
美しい貴族のデイドレスを纏うどころか、貧民のようないでたちで現れた幽霊のような女が、自分の送った婚姻の申し入れの手紙をもって、目の前に居るのである。
ついでに、それを連れてきた御者も、クラッセン子爵家の依頼でここまで来たと証言しているのだから、事態を疑う余地はないだろう。
「そのとおりでございます。私が、あなたと一年間、手紙のやり取りをしていた者——クラリスです」
その後、ハワード伯爵家は大騒動になった。
要するに、恋に溺れたハロルド=ハワード伯爵が、結婚を申し込む相手を間違えたことを、ようやく認識したのだ。
家令や執事、侍女長も含めて全員が混乱し、最終的に、伯爵の父母も隠居先から出てくる騒ぎとなった。
なお、伯爵の父母は、ぼろぼろのクラリスを見て、絶句していた。
そして、クラリスは客室をあてがわれ、ただひたすら、伯爵家の家族会議の結果を待つこととなった。
(多分、追い出されるだろうな)
いくらなんでも、事は結婚だ。
人違いをそのまま受け入れることなどないだろう。
継母ベリンナは、ハワード伯爵家に貰った嫁入りの支度金を猫糞したかったようだが、流石に浅はかすぎると思う。
そう思っていたクラリスの予想は、ここで外れることになった。
「……婚姻は、執り行うこととする」
ハロルドは、戻ってくるなり、苦々しい顔でそう呟いた。
付き添っているのは、その父母と、家令に侍女長である。
驚きの結論に、クラリスはぼんやりと顔を上げて、ハロルドを見る。
「本気でございますか」
「冗談でこのようなことは言わない」
「ですが、その」
「形だけだ。一年で、不妊を理由に離婚する」
固まるクラリスを、ハロルドはちらりとも見ない。
悔恨がにじんだ表情のまま、応接室の机を見ている。
ここで、彼の母が口を開いた。
「騙されて相手を間違えただなんて、外聞が悪いのよ」
敵意に満ちたその視線に、クラリスはなるほど、と得心を得た。
ここでクラリスを追い返すことは簡単だが、それでは社交界の笑いものになる可能性がある。
確かに、一年もかけて手紙のやり取りを行い、多額の支度金を払って迎えた女が想定と違う人物だったというのは、社交界のネタとしては求心力が強すぎるかもしれない。
「私は夜会で会った『クリス』に、手紙を送っていた。君はそれをわかっていて、私をたばかった。責任を取ってもらう」
それだけ言うと、ハロルドは席を立って出て行ってしまった。
慌ててその場で立って、頭を下げたけれども、おそらく彼の視界には入らなかったと思う。
「本当、ふてぶてしい女」
ハロルドの母は、そう吐き捨てるように呟くと、そのまま去ってしまった。
ハロルドの父は、言葉すら発しなかった。
こうして、クラリスはその場に残された。
「……ご案内します」
侍女長に冷たくそう言われ、クラリスは頭を下げた。
案内された部屋は、客間の中でも一番北側にある部屋だった。
伯爵家の邸宅内には、きっと望まない客人用の部屋というのは存在しないのだと思う。
子爵家の部屋よりもずっと豪華なつくりの部屋だった。
しかし、暖炉に火は入っておらず、寝台の上の毛布は、とても冬用のものとは思えなかった。
「ここがあなたの部屋です。ここからは出ないように」
「……」
「そのように、伯爵閣下から申し付かっております。食事もここに運びます」
「わかりました」
丁寧に頭を下げるクラリスに、侍女長は敵意にある視線を向けた後、大きな音を立てて扉を開け、部屋を出て行った。
どうやら、クラリスはここに居た方が、周囲にとって都合がいいらしい。
しかし、当然ながら、歓迎はされていないようだ。
◆
こうして、クラリスは、ハロルド=ハワード伯爵と婚姻した。
婚姻と言っても、書面にサインをしただけだ。
「これを」
翌日、教会の作成した婚姻証書の片割れを家令に渡された。
婚姻は、教会に書類を提出し、受理された後、魔法によって契約を結んで執り行われる。
そして、契約の魔法をほどこした指輪か婚姻証書を、依り代として一ヶ月側に置くことで、契約が成立するのだ。
依り代に使われるのは通常、結婚指輪である。
しかし、クラリスはハロルドに指輪をもらっていない。クラリスも当然ながら、渡していない。
そうすると、依り代は婚姻証書しか存在しない。
「一か月、室内に置いてください」
頷くクラリスを見た家令は、冷たい顔をしたまま、部屋を出て行った。
クラリスはまじまじと、渡された婚姻証書を見る。
(これが、結婚の証明書……)
一年後には、なかったことになる結婚の証。
なんだかふわふわとした気持ちで、クラリスはその紙を見つめた。
そして、汚してはいけないと思ったので、それを机の引き出しにしまった。
(部屋を出るなと、言われたわね……)
室内には、小さいながらに、トイレもバスルームも備え付けてある。
食事さえ運び込まれれば、部屋を出なくても、最低限の生活をすることはできるのであろう。
◆
クラリスは、言われるがままに、部屋の中に居た。
部屋に置いてあった、客人用の五冊の本だけが、クラリスの心を慰めてくれた。
ハロルドは、あれから一度も、顔を見に来ることはなかった。
彼の父母も、当然ながら、顔を見せることはない。
使用人達すら、ほとんどクラリスの部屋にやってくることはなかった。
最初こそ、家令や侍女長が婚姻の手続きのために何度か部屋にやってきていたが、今は定期的に食事が運ばれてくる、それだけである。
そして食事の内容も、おそらくは使用人と同程度のものであった。
固いパンに、野菜のかけらが浮いたスープ、そして干し肉やチーズがほんの少し。
けれども、クラリスはそのことを不満に思わなかった。
だって、こんなのはいつものことだ。
誰もクラリスを、大事にしない。
誰もクラリスに、興味を持たない。
それでもクラリスは、息をして、この世界にとどまっている。
(どうしてなのかしら……)
ときたま、クラリスは自分のことを不思議に思う。
そうするとき、彼女は必ず、胸に手を当てていた。
そこには、首から下げている、金色の懐炉が存在していて、その硬い感触を感じると、クラリスは心穏やかに過ごすことができるのだ。
◆
半年ほど経った頃だろうか。
「あっ」
ある日、食事を部屋の外に出すのを忘れて、慌てて扉を開けたところ、新しい食事を持ってくる侍女と鉢合わせてしまった。
最近は、侍女達は部屋の中に入ってこない。
扉の外にある台に、食事を終えた食器を置いておくと、新しいものと勝手に変えてくれるのだ。
しかし、今日はクラリスが食器を出すのが遅れてしまったので、侍女と顔を合わせることになったのである。
若い侍女は、クラリスの姿を見て、ぎょっとした顔でその場で固まった。
それほどに驚かせてしまったのかと、クラリスは慌てて声をかける。
「あ、あの、ごめん、なさい。……驚かせて」
「お、奥様、ですか?」
「……多分、そうです」
どうやら若い侍女は、クラリスのいでたちが、あまりにも伯爵夫人からかけ離れていたため、不審者かもしれないと思ったようだ。
言われて、クラリスは自分の着ている服を見る。
彼女は、半年前にここに来る旅路の中で買った服の中から、二着を着まわしている。定期的に風呂場で洗って干しているが、室内にはアイロンもないので、段々としわだらけになり、貧民のような見た目に仕上がっていた。
「あ、あの、ドレスは」
「さぁ……」
「あの、御髪の油とか、化粧水は」
「使ったことがなくて……」
「え!? あの、貴族の出身、ですよね?」
「はい」
クラリスは、なるほどと思う。
半年前に、御者ヨハンの言っていたとおりだ。
この伯爵家に侍女として迎え入れられたなら、クラリスよりもずっといい生活ができるのだろう。
そんなふうに思っていると、なぜか若い侍女のほうが泣きそうな顔をした。
「わ、私、侍女長に言ってきます! こんなの、おかしいって」
「大丈夫よ」
「で、でも」
「あなたが罰を受けてしまうかもしれないわ。そうでなくても、伯爵様に目をつけられてしまうかも」
息を呑む若い侍女に、クラリスはほほ笑む。
「もしお願いできるなら……石鹸を……いえ、本をお借りできないかしら」
本は高価だ。
けれども、貴族の邸宅には、必ず図書室がある。
行き過ぎた願いかと思ったけれども、部屋の中でただ一人で過ごしているクラリスは、本が恋しくて仕方がなかった。
筆を執って、手紙を書きたくて、仕方がなかったのだ。
生み出された何かに心をゆだねるその瞬間だけが、クラリスの喜びだったから。
「わかりました」
侍女は、食事を置いて、空の食器を手に取ると、頭を下げて去っていった。
もし、彼女がお願いを聞いてくれなかったとしても、それでもいいと思う。
敵意以外の気持ちを向けてくれたそのことが、クラリスにはとても嬉しかったのだ。








