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公爵と情報屋 ~男装美少女は氷の公爵から一途に愛される~  作者: やまのみき
第2章 初夏

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再びアリンガム邸へ 3

 アリンガムのヴァイオリンから豊かな音色が流れ出る。やがてそれに、レディ・アリンガムの柔らかなソプラノが加わった。

 明るく穏やかな曲調は結婚の贈り物にふさわしいもので、恋人に捧げられた愛の詩であるその歌詞にもよく合っていた。ふたりはもうすっかりその曲を覚えているのだろう、楽譜を見ることもない。


(胸が苦しくなるほど、美しい曲だ……)


 そう思ってしまうのは、これが兄の作った曲だからだろうか。それとも、純粋にこの曲が音楽的に素晴らしいからなのだろうか。あるいは、ふたりが心を込めて歌い、奏でてくれているから……? 

 どの理由が正しいのか、ティリアンには分からなかった。だが分かる必要などあるだろうか。その曲はティリアンの心の奥底にある柔らかい何かを揺さぶり、震わせた。目頭が熱くなるような気さえして、とっさに(まばた)きをしてその馴染みのない感覚を散らす。


『兄上』


『なんだ、ティリアン?』


『また一緒に星が見たいな、兄上』


『ああ、だったら今夜にでもまた外に出ようか』


 幼いときの穏やかなやり取りがふいに脳裏によみがえってきた。なんの屈託もなく話しかけることができ、ランドールもまた優しい目で自分を見つめてくれていたときの、懐かしく慕わしい思い出が。

 ふたりで庭に出て広大な夜空を見上げ、降るような星々に目を奪われた。兄はひとつひとつ星を指さし、虚空に指先で線を描いて、たくさんの星々と星座の名前を教えてくれた。


 熱中しすぎて身体が冷えてきたことにもしばらく気づかなかったティリアンがくしゃみをして、兄が『おや、寒そうだな、おまえは』と笑いながら自分のマントの中に入れてくれたこともあった。

 兄のぬくもりに包まれ、大好きな兄と心楽しいひとときを過ごせる喜びに満ちていた小さな自分。あの頃の幸せが、この曲には溶けているかのようだった。


「兄上……」


 たまらなくなって心の中でつぶやいただけのつもりが、どうやら口にまで出してしまっていたらしい。かたわらで聴き入っていたハーディスがはっと顔を上げた。ちらりとこちらに視線を向けて、それからまるで見てはいけないものでも見たかのようにすぐに目を逸らす。

 自分はいったいどんな顔をしているのだろうか。これほど心が千々に乱れているときでなければ取り繕えたかもしれないが、今このときばかりは無理だった。ティリアンは少しだけハーディスから顔を背け、なんとか冷静さを保とうと奥歯を噛みしめた。


 やがて、開いていた花がそっと花弁を閉じるようにセシリアが歌い終わり、最後のリフレインをヴァイオリンがやわらかに奏でて、演奏が終わった。

 ティリアンは大きく息をついた。すぐには動けず、ただふたりを見つめた。

 アリンガムも奥方も、こちらが感じているものを受け取っているかのように、声を出そうとも、大きく動こうともしなかった。ただふたりで目を見かわして微笑み合い、そっと寄り添う。ふたりのあいだに流れる愛の深さが目に見えるようなしぐさだった。


「……素晴らしかった、アリンガム、そしてレディ・アリンガム」


 まともに声を出せると判断してからゆっくりと口を開く。素直な賛辞に、ふたりの顔がほころんだ。


「ありがとう」


 アリンガムが破顔して礼を述べ、レディ・アリンガムは優雅に一礼した。


「光栄ですわ」


「いや、光栄なのはこちらのほうだ。これほどの演奏を聴いたことはなかった」


「まったくだ。音楽会やオペラにはさんざん行ってきたが、今まで聴いた中で一番心を揺さぶられたよ」


 ティリアンの言葉にハーディスも同調する。「大げさだな」とアリンガムが照れたように笑った。


「ハーディスの言う通りだと私も思う。……本当に、心に響くものだった」


「曲が素晴らしいのです。ランドール様は本物の天才だと、この曲をいただいたときには感嘆いたしました」


「確かにいい曲だな。アリンガム、これを音楽会で披露したりはしていないのか?」


「したことはないな。これはランドールから僕たちふたりへの贈り物だ。とても特別で私的な曲だから、誰かに聴かせようと思ったことはない。ときどき、こんなふうにふたりで演奏して楽しんでいるだけだ」


 ハーディスの質問にそう答えたアリンガムは、思いやりに満ちた目でティリアンを見つめた。


「今日、君たちの前で披露したのは、君たちがランドールの肉親だからだ。彼がこんな素晴らしいものを贈ってくれていたことを伝えたかった。少しでも喜んでくれたなら嬉しい」


「……得がたいものを、与えてもらった。心から礼を言わせてもらう……ありがとう、ふたりとも」


 ティリアンはそう言って、アリンガムに右手を差し出した。アリンガムがその手を取り、しっかりと握る。

 アリンガムと握手を交わしたあと、ティリアンはレディ・アリンガムに向き直り、「レディ、お手を」と手を差し出した。身をかがめ、たおやかに差し伸べられた彼女の手の甲にかすめるように唇を落とす。それからそっとその手を離し、ふたりを見つめた。


「今日、あなたたちがしてくれたことは忘れない。ふたりの大切な宝を我々と分かち合ってくれたことに、心から感謝する」


 ティリアンの声にこもった真摯(しんし)さが伝わったのだろう、ふたりとも真心のこもった笑みを向けてくれた。


「我々はみなランドールを愛していた。その縁で、これからは君たちとも友人になれたらと思う。いつでも訪ねてきてくれ。セシリアともども歓迎するよ」


「こちらこそ、そう言っていただいて嬉しい。こちらにもぜひ来てくれ。アースター家の門はいつでもあなたたちの前には開かれている」


「うちの門もな。もっとも、君たちが仲睦まじくうちに来てしまうと、母の熱病がまたぶり返しそうで怖いが」


 冗談めかしたハーディスの言葉に雰囲気がほぐれ、4人とも屈託のない笑顔になった。


「結婚はいいものだよ、パーセル。セシリアと出会えなかった人生など考えたくもない」


「君のその意見は尊重するが、頼むからそれをうちの母の前で言わないでくれよ」


「ハーディス、おまえもそろそろ諦めて伯母上の言う通りにすればいいのだ。楽になれるぞ」


「一時の楽を取って残りの人生を後悔して生きるのはまっぴらだ。そういうおまえこそ、他人(ひと)のことを言えた義理か」


 男たちのやりとりにレディ・アリンガムが吹き出す。


「ふふ、おふたりとも、そのうちに素敵な女性と熱烈な恋に落ちるのではありませんか?」


「……ないな」


「ああ。ない」


 ティリアンはハーディスと目を見かわし、確認するようにうなずきあった。



 辞去するふたりをアリンガムと奥方は玄関ホールまで来て見送ってくれた。ごく普通の貴族の邸宅らしいたたずまいの建物が、そこにふたりが並んで立っているだけで、なんだか『家庭』としか言いようのないものに見えてくる。

 不思議な感覚ではあったが、悪くはなかった。むしろ、なんだかほっとするものを感じてしまう。

 ランドールから贈られた曲を聴いていたときはあれほど波立っていた心も、ふたりの穏やかさにやわらげられたような心持ちがして、穏やかに別れの挨拶を交わすことができた。


「今日は世話になった。また来させてもらう」


「ああ。いつでもぜひ来てくれ。セシリアもこれからはあまり頻繁に出かけられないからな、君たちが来てくれると嬉しいよ」


 本当にそう思って言ってくれているのが分かり、ティリアンの心も和む。

 別れてからも、いつにない穏やかな気分は続いていた。おそらくハーディスも同じだったのだろう。馬車に腰を落ち着けると、しみじみとした表情でつぶやいた。


「今日、来てよかったな」


「ああ。……本当に、よかった」


 ティリアンは万感を込めてうなずいた。



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