再びアリンガム邸へ 2
翌日、雨の中を馬車に乗って出かけ、アリンガム邸の客間に通されたティリアンとハーディスは、アリンガムだけでなく夫人もそこにいたことに少々驚いた。
「レディ・アリンガム、お迎えくださったとは嬉しい驚きです」
放蕩者らしく如才ないなめらかさでハーディスが奥方の手を取り、手の甲にキスを落とす。レディ・アリンガムはうっすら頬を染め、照れたように微笑んだ。
「夫から、あなたがたがミスター・イングラムのことを教えてほしいと頼んできたことを聞いたのです。彼のことなら、私も存じていますから」
「なるほど。同じ歌手どうしだからですか」
挨拶を済ませて腰を下ろしたティリアンは、向かいの夫人にそう尋ねた。まあそんな感じですわね、と彼女はうなずく。
「私が歌を習っていた先生が、ミスター・イングラムと昔よく共演していたソプラノ歌手だったのです。その縁でお会いしたことがありまして、何度か特別に稽古をつけていただいたこともありました」
「実は、僕たちの結婚式にも来てもらったんだよ。僕の家とは長年の付き合いでね。もともとは祖父が若い頃の彼を後援していたんだ。それが縁でずっと交流が続いている」
アリンガムが情報を補足し、そうなのか、とティリアンは感心した。
「私は知らなかったが、ずいぶん有名な歌手のようだな」
「ああ。もう20年近くは前のことになるのだろうが、全盛期にはそれはもうすごい人気だったらしい。今でも艶のあるいい声をしているよ。さすがに歌劇場の隅から隅まで響き渡るほどの声はもう出せないが、サロンで歌曲なんかを歌う分には問題ない。うちでもたまに歌ってくれる。そもそもはそれを聴いて、タイラーの稽古を彼に見てほしいとランドールが僕に頼んできたんだ」
「そうだったのか。兄の頼みで、あなたがミスター・イングラムにタイラーを紹介してくれたということなのだな」
思わぬつながりにティリアンは目を見開いた。アリンガムが懐かしそうな表情になる。
「ああ。将来性のある、いい原石を見つけたから、ぜひ彼に磨いてもらいたいとランドールが言ってね。それがタイラーで、僕も彼の声を聴かせてもらって、これは楽しみだと思ったんだ。だからミスター・イングラムに連絡を取って、一度聴いてみてほしい若い子がいると頼んだ」
「なるほど。それで?」
「招きに応じてうちに来てくれたミスター・イングラムも、タイラーの歌声を聴いて感心したんだろうね。弟子など取るつもりはなかったが、彼なら教えましょうと言ってくれたんだよ。それで、タイラーはミスター・イングラムのもとに通うようになったというわけだ」
「ということは、タイラーを見出したのはあなたではなく兄だったのか」
なんとなく、アリンガムが開いていた音楽サロンでタイラーを見出した兄が彼の歌声を気に入って後援者となったように考えていたのだが、どうやら違うらしい。
『アイヴズ』で兄の友人たちから話を聞いていたとき、誰かがそんなふうに話していたが、実際は逆だったようだ。
「僕じゃない、ランドールだ」
アリンガムはきっぱりとそう言って、「これがミスター・イングラムの住む家の住所だよ」と書付を渡してくれた。あらかじめ用意しておいてくれたらしい。
「助かる。礼を言う」
メモに書かれた住所は、なんと北街区のものだった。中央街区との境目あたりだとはいえ、貴族でない者が住むにしては最上級の場所だと言っていい。
「一流歌手だと平民でも北街区に住めるのか」
横からメモを覗き込んだハーディスも驚いている。「まあ、そうなんだろうな」とアリンガムが笑った。
「彼が活躍していた時代は、まだ戦争も始まっておらず、芸術に回る金も今よりずっと多かったんだろう。王立劇場の主役を張るような歌手を屋敷に招いて歌わせるのも流行したと聞く。舞台以外でもそうやってずいぶん稼いだんじゃないかな。貴族たちにももっと余裕があって、領地でのハウスパーティーに余興として歌手を招いて演奏会を開くなんてこともしていたらしい。今は芸術家には厳しい時代だからな」
自国が戦場になっているわけではなくても、長引く戦争は国の経済にも確実に暗い影を落としている。王族も華やかに遊び歩くことを慎んでおり、それに倣って社交界の行事も昔に比べれば減っているのだという。
オペラや演劇や演奏会などの公演数も少なくなっているはずで、芸術で身を立てようとする者たちには厳しい時代なのだろう。
「私も何度か先生と一緒にそのお屋敷にうかがったことがあります」
運ばれてきた紅茶を飲みながらレディ・アリンガムが微笑んだ。
「貴族の屋敷と比べればはるかに小さな街屋敷ではありましたが、ミスター・イングラムはとてもそのお屋敷がご自慢で……広い音楽室に立派なピアノが置かれていて、そこで私も歌を歌わせていただきました。稽古をつけてくださったのもそこでした。書斎には音楽関係の書物や楽譜がたくさんあって、そのコレクションもご自慢でしたわ」
「タイラーもその屋敷に行って稽古を受けていたのだろうか」
「そうだろうな。師匠と弟子なのだから、弟子が出向くかたちになるはずだ。それにミスター・イングラムは足が悪いんだよ。杖をつかないと歩けず、馬車に長時間乗ることもつらいと言っていた。こちらに来てくれるときはいつも子爵家用の馬車を差し向けている」
「そうか。なら、彼に話を聞きたければあちらに出向いたほうがいいのだろうな」
ティリアンの質問に、「そのほうがいいと思うよ」とアリンガムはうなずいた。
「ありがとう。いろいろと参考になった」
親身になって話してくれたふたりに頭を下げると、「もう帰るのか? 時間がないのかい?」とアリンガムが聞いてきた。
「いや、そういうわけではないが……」
「だったら、少し音楽室へ行かないか? このあいだ、言っていただろう。ランドールに結婚の祝いにと曲を贈られたことを。同じ形というわけにはいかないが、セシリアの歌と僕のヴァイオリンでなら、君たちに披露できる。だからふたりで待っていたんだ」
ティリアンははっと顔を上げた。ふたりは穏やかな笑みを浮かべ、こちらを見つめている。
「それは、ありがたいが……いいのか?」
「もちろん。では、行こうか」
立ち上がったアリンガムは夫人に手を差し伸べて立たせ、「こちらだよ」と部屋を出た。
広い音楽室はさすが音楽愛好家で知られるアリンガム一族にふさわしく豪華なものだった。グランドピアノの前に立ったアリンガムは、ケースからヴァイオリンを取り出して調弦したあと、レディ・アリンガムに「すぐ歌えるかい?」と聞いた。
「ええ。さっきまで歌っていたところですもの」
「では始めようか。くつろいで聴いてくれたらいいよ」
少し離れたところに座ったティリアンとハーディスに向けてそう言うと、アリンガムはヴァイオリンを構え、弾き始めた。
貴族たちは、王都での屋敷とは別に、自分の所領(荘園=マナー)に拠点である領主屋敷を有しています。社交シーズンには王都の街屋敷に、それ以外は領主屋敷に住むというのが基本パターンです。マナーハウスにたくさんの客を招き、泊まりがけで何日もかけて行うパーティーをハウスパーティーといいます。




