アリンガム邸への訪問 3
「彼女をひと目見た瞬間に分かったんだ。僕の心の弦を震わせるのは後にも先にもたったひとり、この女性だけだと。彼女でないとだめなんだから、ほかの女性とは結婚できないとね」
「まるで天からの啓示だな」
ハーディスが茶化すようにつぶやいたが、アリンガムはさらりと「まあ、そんなものだよ」と返した。
「幸いにもうちは君たちみたいな名門貴族ってわけでもないし、実は何代か前にも、平民の女性と結婚した者がいるんだよ。さすがに当主ではなかったが。それほど堅苦しいお家柄ではないのが幸いしてね。僕の両親が生きていたらもう少し反対されたかもしれないが、一族の者たちはもともと変わり者の当主に慣れていたから、それほど意外でもなかったようだ」
「それはよかったな」
「ああ。貴族だからというだけで愛のない結婚をするより、相手が平民でも本当に愛せる相手と結婚するほうが、絶対にいいと思うんだが。なかなか賛同は得られないがね」
そう言うとアリンガムは思い出したようにふっと頬をゆるめた。
「ランドールは僕の意見に賛成してくれたよ。セシリアとの結婚に眉をひそめる友人もいたが、ランドールは祝福してくれた。お互いが愛し合っているのなら、一緒にいるのが一番だと言って。心のこもった結婚祝いもくれた」
「兄が……?」
意外な言葉にティリアンは目を見開いた。あの兄が、お互いが愛し合っているなら一緒にいるのが一番だなどと口にしていたのか。貴族としてのつながりではなく愛によって結ばれた結婚を祝福し、贈り物までしていたとは。
「それは意外だな。ちなみに、兄があなたに何を贈ったのか、聞いてもいいだろうか」
「もちろん。ランドールは自作の歌曲を贈ってくれたんだ。セシリアの好きな詩人の詩を歌詞にして、それにメロディと伴奏をつけてとてもすてきな歌曲にしてくれた。ある夜、僕とセシリアを夕食に招いてくれて、夕食のあと、さっき話に出たあのアルマン・タイラーがメロディを歌い、ランドールがピアノで伴奏してくれたんだよ」
そのときのことを思い出したのか、アリンガムが幸せそうに微笑む。
「素晴らしい曲だった。セシリアは感動して泣いていたよ。白状すると、僕も目頭が熱くなった。曲の披露が終わったらその楽譜をプレゼントしてくれてね。セシリアと僕の宝物だ」
「へえ……やるもんだな、あいつも。そういうところをもっとほかのやつらにも見せればよかったのに」
ハーディスがなにやら不満そうにつぶやいた。たしかに、そういう思いやりを家族に対して兄が見せたことなど、ある時期からは絶えてなかった気がする。避けられ、拒まれるばかりだったことを思い出して苦い気分になったが、それを振り払うようにティリアンは口を開いた。
「そのアルマン・タイラーという歌手は、兄にずいぶん目をかけられていたのだな。そういう私的な贈り物をする相方として選ぶほど」
「……ああ、そうだな」
まただ。また、アリンガムの反応にわずかな違和感を覚える。タイラーという歌手のことで、アリンガムには何か言いたくても言えないことでもあるのだろうか。
「よかったら彼にも話を聞いてみたらどうかな。僕たちの知らないランドールの一面を知っているかもしれない」
「そうかもしれないな。あなたは彼の連絡先をご存知か?」
「いや……僕が彼に直接連絡をとったことはないから。ランドールが彼とどう連絡をつけていたかも知らない。そちらの使用人に尋ねたほうがいいだろう」
「分かった。そうしてみる」
それをしおにティリアンは立ち上がり、「話す時間を取ってくれたこと、礼を言う」と会釈した。横でハーディスも立ち上がる。
「いや、あまりお役に立てなかったとは思うが……指輪、見つかるといいな」
「ありがとう。このプログラムは後日返却に伺う」
「ああ。そのときにでも、ランドールがプレゼントしてくれた曲を、セシリアと披露するよ。そのときはゆっくり来るといい」
アリンガムは柔和な微笑を浮かべ、手を差し出した。ティリアンはその手を握り返した。柔らかいが、指の特定の箇所だけが妙に固い。楽器をやっている者にありがちな手だ。
「そうだ……あとひとつだけ、聞きたいのだが」
「なんだ?」
「アリンガム、あなたは南街区に行ったことはあるか?」
「南街区? いや、ないな。僕たちが足を踏み入れるような場所ではないから」
「そうか」
うなずいたティリアンに、アリンガムは少し話しにくそうではあったが、付け加えた。
「……実はセシリアが、結婚前、慈善活動としてときどき南街区の孤児院に歌を歌いに行っていたんだが、僕と婚約してからはやめてもらった。さすがに、子爵夫人となる女性が南街区に出入りしていたらまずいからな。代わりに寄付をすることにして、今でも欠かさず続けているよ」
「なるほど。奥方は本当に天使なのかもしれないな」
「ああ、彼女は天使だよ」
アリンガムは悪戯っぽく笑い、「その孤児院では、うちからの寄付で週に一度甘いパンを食べられるから、彼女は『甘いパンの天使』と呼ばれているらしい」と秘密めかしてささやいた。ハーディスが笑い声を上げる。
「甘いパンの天使か、それはいいな」
「あなたの天使によろしく、アリンガム。では失礼する」
「ああ」
アリンガムの屋敷を辞して、屋敷の前に止めてあったハーディスの馬車にふたりで乗り込んだ。空模様があやしかったから、今日は歩いてくるのはやめたのだ。
馬車が走り出してしばらくはそれぞれ物思いにふけっていたが、やがて、「なんというか……いいやつだな、アリンガムは」とハーディスがぽつりとつぶやいた。




